六本木アートカレッジ スペシャル1DAY
セミナーレポート

Discover21 presents「問いの技法」

梶谷真司
東京大学大学院総合文化研究科 教授
Profile

1966年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。
専門は哲学・医療史・比較文化。
著書に『シュミッツ現象学の根本問題~身体と感情からの思索』(京都大学学術出版会・2002年)、『考えるとはどういうことか~0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎・2018年)などがある。近年は哲学対話を通して、学校教育、地域コミュニティなどで、「共に考える場」を作る活動を行っている。

ヨシタケシンスケ
絵本作家
Profile

1973年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。日常のさりげないひとコマを独特の角度で切り取ったスケッチ集や、児童書の挿絵、装画、イラストエッセイなど、多岐にわたり作品を発表している。2013年に刊行した絵本デビュー作『りんごかもしれない』で第6回MOE絵本屋さん大賞第1位、『りゆうがあります』で第8回同賞第1位、『もう ぬげない』で第9回同賞第1位、『このあとどうしちゃおう』で第51回新風賞など受賞作多数。著書に『なつみはなんにでもなれる』、子育てエッセイ『ヨチヨチ父―とまどう日々―』など多数。

Overview

東京大学で哲学の教鞭をとる一方、「哲学対話」ブームの火付け役として各地で対話を行ってきた梶谷真司氏と、思わず大人でも唸らされる素朴な疑問、空想をユーモラスなイラストと共に形にしてきた人気絵本作家ヨシタケシンスケ氏。絵本制作の核にある問いへの姿勢と、哲学対話における意外な共通点とは何なのか?お二人の「問い」をめぐる対談が開催された「六本木アートカレッジスペシャル1DAY」。いたるところで「問題」に直面し、悩まされる現代において、改めて問うことの意味を見つめなおします。

嘘から広がる世界

梶谷 ヨシタケさんの本といえば『りんごかもしれない』という本が、哲学プラクティス、つまりみんなで集まって哲学的なテーマについて話をする人たちの間で、すごく話題になったんですね。目の前で見ているものが見えている通りにあるのかどうか、みたいものは、哲学のテーマでもあるんですよ。これって、着想はどんなふうに得られたんですか?

ヨシタケ 『りんごかもしれない』は僕のデビュー作なんですけど、編集者の方がお題をくださって、りんごでもなんでもいいから、何か一つのものを色んな目線で見てみる本を作ってみませんか、と。最初の時点ではもうちょっと教育的なノリの強い企画で、たとえばいろんな方法で食べてみようとか、色んな国の言葉でりんごって言ってみようみたいな、まさに、りんごそのものをいろんな角度で分析する企画だったんです。ただ色々と考えていくうちに全然面白くならなくて、ある日、りんごに見えるけれども、りんごじゃないとすればどうだろう、と。「かもしれない」というキーワードで作ってみたら、嘘つき放題になったんです。たとえばいろんな国の言葉の「りんご」を本にすると、どこかの国のスペルが一個間違っていると、僕が怒られる。ちゃんと調べろよって。ところが、「かもしれない」っていうキーワードでくくると、これは主人公の男の子の想像だから、あってる間違ってるの話じゃないんです。だから作者である僕に、クレームが来ない構造をしているんですね。これはいいやと思って。どの仕事にも共通して、何のためにやっているかというと、クレームをなるべく減らしたいというのがあります。怒られたくない、という想いでやっているので。それに、「かもしれない」でくくるとすごく広がりがでて、おもしろいなあと思って。そういう意味で言うと、哲学的なアプローチを求められたわけでも、狙っていたわけでもないんですよ。

梶谷 今、嘘つき放題っていう話をなさっていましたよね。哲学対話って人が集まって一緒に考えていくんですけど、みんな結構ある種の自己開示というか、すごく率直に話をするんです。けれど、正直に話をする必要というのは全くないんですよ。考えているだけだから。言っていることが全部嘘でも構わないんです。そういう意味で大事にしているのが、自分の喋ったことに責任を持たない、ということ。皆で一緒に考えているだけだから、別に間違っても構わないし、嘘でも構わない。嘘ってある種の想像だから、それが思考の幅を広げるんです。そこが僕が近いなと思ったところでした。ヨシタケさんの他の本でも、あーかもしれないこーかもしれないっていう内容が基本的にすごく多いですよね。

ヨシタケ 実は、僕、勉強が嫌いで、世の中の最新事情にすごく疎いんですね。今何が流行ってるかとか、そういう情報を自分から入れようとしないので、なんかやれって言われた時に、自分の頭の中にあるものだけで作るしかない。それが結果的にものの考え方だったり捉え方といったテーマになるんです。僕はちっちゃい頃友達もいなかったので、自分とは何だろうみたいなことを考えて時間をつぶしていたんですが、そういう一人でウジウジ考えてたことが今はお仕事にもなっているので、世の中わかんないもんだな、と。

梶谷 友達がいないというのも、哲学とよく似ている感じがしますね(笑)。哲学に興味を持ってる人って、わりと友達いなかったというか、いても本当に自分が興味を持っていることに関しては話せない。そういう点でも似ているなと思いますし、それから勉強が好きじゃないというのもそうです。哲学をやってると勉強で教えられていることに一々つまずくことも多いんですよ。なんでこんなことやらなきゃいけないんだろう、とかね。哲学対話のいいところは、知識に基づいて話をしないというルールなんです。すると、本当に幼稚園の子と一緒に対話できるし、むしろ幼稚園の子がいるとハードルが高くなる。常識が通用しないので、むしろ考えさせられたりするんです。勉強して何かしゃべることは世の中で大事って言われているけれど、それって意外にイマジネーションを限定して殻に閉じ込めているなと思うんです。

ヨシタケ そうですね。知識は大事なんだけれども、知識だけではない空想の部分とか、そもそもの疑問みたいなところも大事なんだぜ、と誰かに教えてほしいというか。勉強も嫌いだったし友達もいなかったけれども、それが仕事になっている僕みたいなやつがいる。そういうこと自体が、僕が子供の頃知りたかった世の中の幅なんですね。だから、絵本作家という立場で何かを言えるとすると、いろんなやついるぜ、と、勉強できるやつはどんどんがんばって、そうじゃないやつは意外と別の道があるんだぜ、というところなんです。そういう選択肢を増やす、提示する、それぞれに良さがあって、苦労があって、というところを分かりやすく伝えることというのも大事なんだろうなと思うんですよね。

みんな「正解」に縛られている

梶谷 ヨシタケさんの場合は、絵はご自身でもあんまり上手じゃないとおっしゃっていますけれども、それでも自分の取り柄って絵だな、みたいに思って仕事を?

ヨシタケ 違うんですよ。僕はちっちゃい美大みたいなところに行っていたんですけど、最初の授業で五十人くらいで絵を描いて、先生が端っこから並べていって、一番最後に僕の絵が並べられたんです。先生がこの絵を描いたのは誰だと言うので、僕が真っ赤な顔して手を上げたら、「お前、こんなんでよく大学に入れたな」と。それくらい絵は描けなかったんですよ。目の前にあるものをそっくりに描くだけのことがなんでできないんだって、ずーっと言われ続けるんですね。それで、僕は見て描くのやめようって思ったんです。すると、怒られる筋合いがなくなるんですね。似てなくても、見てないんだもん当たり前じゃんって。

梶谷 美大の教育にも正解があったわけですね。学校教育がまさにそうですが、正解があって、それからどれだけ外れているかで評価をされて、良い悪いを言われるわけですよね。テストがあって正解があって、だから問いっていうのに結び付けて言えば、正解のある問いというのがほとんどで、それをちゃんと答えられるようにするのが教育なんです。だけど、偏差値が高くても低くても、哲学対話に入っちゃうとあんまり差がないんですよ。あんまり言い方はよくないけれども、下手をすると偏差値が低い学校の子の方が発言が面白いんです。正解を知らないから、自分の頭で考えて疑問を持つことに慣れているんですよ。それに、正解を教えていることの意味って、よく分からないんです。僕は東大の学生を見ていると、彼らは正解を答えて評価をされる社会の中では優れた人たちなんだけれども、それが彼らにとってある種の拠り所になると同時に、すごく縛られてもいるんですよ。結局みんな評価されるというシステムの中で縛られていて、いわゆる上にいる人たちも全然ハッピーに見えないんですよね。だから、確かにシステムとして優れているんだけれど、なんでそれをしなきゃいけないのかというのは、個々人にとってはよく分からないように思います。

ヨシタケ 勉強や学歴とは別の評価軸があるってことはみんな薄々分かっているんだけれども、やっぱり具体的な言葉にはしにくい。だからこそ、広まらないし、伝わらないんですよね。

選択肢がより多い世界を目指す

梶谷 絵本って、しばしば子供の教育のためにあるものとされるじゃないですか。僕は哲学対話をやるときに絵本を題材にすることがあるんですが、現代の絵本作家が描いたものって対話のネタになりにくいのが多いんです。メッセージ性が強すぎるんですね。命って大事だよね、友情って素晴らしいよね、みたいな話をされちゃうと、それにとらわれちゃうんです。ヨシタケさんの作品がいいのは、教育的なメッセージが特にないということです。

ヨシタケ 僕が絵本を描くときに大事にしていることの一つに、「隙間が空いている」ということがあります。物語だったり設定だったり頁の余白だったりに、読んでいる人が自分の感情や経験をさしはさみながら、現実に常に片足を置き続けながら、全部没頭しないということです。ずっと気が散りながら、自分が何か言いたくなるようなものであってほしいという想いがあって。なぜなら僕が子供の頃読んでいた、僕が好きな絵本ってそういう絵本だったんですね。感動的であったり教育的であったり、大人側のあざとさみたいなものに敏感に反応していたので、そういう当時の僕みたいな子が苦手になるような本は、僕は作りたくなかった。結局、どの絵本を通じても言えることは、人って良く分かんねえよな、ということです。人とどんなに話題があってようが、親子であろうが、別の人間で、共有できる部分なんてない、分かり合うことなんてできないよね、と。そういう当たり前のことを面白おかしく言いたいなと思っています。教科書みたいなことって教科書が言えばいいんですよ。学校の先生は学校の先生みたいなこと言えばいいんです。テレビとか漫画とか絵本というコンテンツが、親や先生が立場上言えないことを言えばいい。選択肢が沢山あれば、あなたが一番納得する、腑に落ちるやつを選んでね、と言えるんです。

梶谷 とはいえ子供って結局許容されているじゃないですか。変なことやっててもね。でも子供が中学、高校に入ると、勉強しろ、みたいな感じになっていくわけですよね。子供の頃あんなに色々と発想できて、大人が思う以上に論理的にしっかり考えて喋れるのに、成長していくと全部壊されていく感じがするんです。ヨシタケさんの絵本を、たとえば中学生、高校生とか大人のために描くということは考えたりしませんか?

ヨシタケ 僕の作る絵本は基本お子さん向けであるというのが条件なんだけれども、大人なりに何か引っかかる部分があるということはすごく大事なんです。ただ、子供でも大人でも引っかかる事柄って限られてくるんですよね。単純に体の話であったりとか、すねぶつけると痛いよね、とか。とはいえ、やっぱり老化して気付くことや、人の親になって初めて気づくこともいっぱいあって、それを行ったり来たりしていきたいなと。中学、高校になって急につまんなくなる、いわゆる常識がちゃんと身について、それ以外のことはどんどん捨ててしまうということに対する勿体なさはありますよね。その辺は両立できるはずなんですよ。社会的な常識を身に付けつつ、子供らしい部分も持って。

単なる「問い」を「良い問い」へカスタマイズする

梶谷 ただね、変なものと常識の両立というのは、社会全体としては両立するのかもしれないんだけれど、個々人の中ではそういう風に生きられない人って結構多いと思うんです。そういう人たちが、どうやって折り合いをつけるのか、制度としてもうちょっと、それこそ余白や遊びの部分がある、健全な制度があっていいかなって思うんですけど。

ヨシタケ そうですね、最終的にはいいとこどりを目指して、今の制度を変える権限のある人をうまくだまくらかしてですね、制度の幅を広げていくしかない。ただ、僕は絵本を描くときにも思うんですけど、違う環境に住んでいる人間は使う言葉の意味合いが違うので、そこをちゃんと翻訳してやらないと相手にイメージしてもらえないし、最終的に世の中は変わっていかないんですよ。だから問いということで言うと、良い問いとしての条件としては、相手に考えさせるために、その人にとって得がないといけないんです。いきなり「人生ってなんだと思う?」って言われても、忙しい人は「うるせえな」って話になるわけですよね。よっぽど得があるか、よっぽど損になるかで、人は初めて考え始めるものなので、いろんな人に考えてもらうためには、やっぱりそれぞれの問いが必要だろうし、そういうところを丁寧にカスタマイズしていく、翻訳して問いの形を変えて投げかけていくことが必要なんだろうと思いますね。

梶谷 そういう点で言うと、大人の問いって色々と考えた結果、わざわざ問題にしてるみたいなところがあるんです。問題をなくそうとすると、色々とルールを作らなきゃいけなくなるじゃないですか。極端なことを言うと、ルールってなければ誰も破らないわけですよ。それに守れない人は、どっちみち守らない。元々問題って、あったらあったでそんなに大したことないのかもしれない。対処しなきゃいけない問題はもちろん色々あるんだけど、でもそれ以上に、問題があることに対する不安とか、それを起きないようにするための努力で、みんな不安になっていたり怖がったりしている。問題があって別にいいって思えれば、それとの付き合い方ってあると思うんですけど。

ヨシタケ 僕はついつい不安になっちゃう方ですし、どうすれば怒られずにすむかとか、どうすれば問題が起きないようになるかとか、そっちベースでものを考えているから、どっちの気持ちも分かるんですよ。どっちの立場の人にとっても伝わる妥協案があれば、もっと言えば、僕を説得できるような理屈があれば、世の中変わるはずなんです。すごいめんどくさがりで変えたくない人間でも、そう言われちゃ確かに変えた方がいいかもなと、それだったらお金払ってもいいかもなって言えるような、そういうものがあればもっとガラッと変わるし、そういうこと言ってくれる人がいればね。僕自身も自分から言えることを探していきたいなとは思います。

梶谷 ヨシタケさんは意外とバランス取れてますね。

ヨシタケ そうなんです。バランスが良くないと話を聞いてもらえないんです。だからバランスをとりながら、戦うだけでも駄目だし、逃げるだけでも駄目、両輪でちょっとずつ。そのことをみんなが意識して、自分はどっち派なんだろう、何が向いているんだろう、それを続けていくには、どうすれば自分自身が楽しめるんだろうっていうことも含めて、考える、探していく、見つけていくってことが大事なんじゃないかと思います。(了)