六本木アートカレッジ スペシャル1DAY
セミナーレポート

「カッコいい」を考えることで、
個人の美意識が見えてくる

山口周
独立研究者/著作家/パブリックスピーカー
Profile

1970年東京都生まれ。独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『武器になる哲学』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。

平野啓一郎
小説家
Profile

1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在した。
著書に、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』(芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『ドーン』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞受賞)、『ある男』(読売文学賞受賞)等、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』等がある。

Overview

著書『「カッコいい」とは何か』で歴史的背景含めて多岐に渡って「カッコいい」という概念を考察している、芥川賞作家の平野啓一郎氏。「カッコいい」を考えることは、近年の日本文化を知ることだと語り、「しびれるような体感」を個人の美の判断として重視するなど、独自の視点を展開しています。多くの小説で人間の生きる様を描いてきた平野氏に、「カッコいい」を起点に個人の美意識やアイデンティティ、意味が持つ力、などについてお話いただきました。

「カッコいい」が歴史を動かす

山口 今日は平野啓一郎さんに、カッコいいをテーマに色々お話しを聞いていきたいと思います。最初のクエスチョンですが、こちらの本『「カッコいい」とは何か』はカッコいいというテーマについて考察を深め、膨大なリサーチをして、歴史で言うと本当にもう千年単位で、洋の東西を問わず、色々な領域からある種ブルドーザー的に全部拾ったという印象があるのですが、ここまでの労力をかけて、なぜカッコいいっていうものを1回突き詰めて考えようと思ったのか。そのキッカケは何だったのですか?

平野 やっぱり子供の時から、無意識的にカッコいいものに憧れていました。もうそれは、仮面ライダーとかウルトラマンとか、音楽聞くようになってロックとか好きになって。10代の時に三島由紀夫の『金閣寺』を読んで文学に開眼しました。その時は、文体や写真を見て、やっぱり、ちょっとカッコいいと思っていたんですね。
それで、ずっとカッコいいという事は自分の人格形成や人生の中で、凄く大きな意味を持っている割に、「カッコいい」について真面目に書かれた本が1冊もない事に気が付きました。「かわいい」っていう概念に関しては四方田犬彦さんが『「かわいい」論』を書いて、その後も随分と色々研究書が出ましたが、「カッコいい」については全く書かれていなかった。
アートとかカッコいいものというのは、ある価値だと思うんですね。戦後次々に新しい物が生まれてきた中で、どういう風に人がそれを受容してきたか、という事。20世紀後半は、「カッコいいかどうか」という事が価値判断において、圧倒的に大きな意味を持っていました。それはまず、購買意欲を刺激するので物凄く大きなビジネスになったし、人を動員する上でも重要だった。好きなロックバンドのコンサートとかだと、みんなもうチケット争奪戦で、我先にと行くでしょ?それで、バンドが登場した瞬間に「しびれる」ような感動があって、社会自体が人の生理的な感覚をシステムとして組み込みながら、何が素晴らしくて、何が駄目なのかを判断してきたのではないかって思ったんです。じゃあ、どの辺にルーツがあったのか、という事を色々探っていく中で、本という形になりました。

山口 なるほど。ある意味歴史の中で、カッコよくないものって残ることが出来なかったと思います。平野さんが本の中で仰られているように、カッコよさの判断は、鳥肌が立つかどうかという身体性がまず一番にあります。僕もビジネスにおける判断は、喜怒哀楽に根差した方が正しい判断が出来ると言っているのですが、例えば、フランスのノートルダム大聖堂とかヨーロッパの大聖堂へ行ってステンドグラスを見ると、やっぱり鳥肌が立つ感覚があるし、カッコいいですよね。だから、ある種その歴史の中で非常に大きな人を集めるシステムを作ろうとした時に、権力だけで集めるのはどうしても無理があって、そこに行った人が鳥肌立ち、それで「あのライブめっちゃくちゃ良いから、絶対行った方がいいよ」みたいに、連鎖で人が集まるところにお金も集まる。結局歴史的に保護され残ったものは、何らかの形でカッコよさがあるという気がするんです。

「モードは過ぎ去る、スタイルは残る」

山口 平野さんは音楽が凄く好きですよね。僕も音楽が好きなのですけれども、カッコよさの時代性を考えた時に、僕がロックを聞くキッカケになったのは、ビートルズです。恐らく小学校の6年生の時だったと思うのですが、市川崑監督が監督した「悪霊島」という映画があって、これのラストで、レット・イット・ビーが流れるんですよ。あの最初の和音ってCメジャーで、何故かあのCメジャーが出て来た時に、「なんだこれは!」と思ったんですね。端的に言うとカッコいいと思ったんです。
その時、ビートルズは解散してから12年経っていましたが、当時の人達が感じたカッコよさというものが、継時的に残っている訳です。でも、一方でカッコよいものがいつかダサくなってしまう事もある。カッコよさと継時性っていうのは、何か平野さんなりにお考えがありますか?

平野 やっぱり新しいスタイルを1つ作った人達は、それはクリエイティブだから、1回時代遅れになったとしても、カッコよく聞こえるのではないかという気がします。ロックでも、なにかのオリジナリティがあれば、古びてもまたどこかで聞き直されるかもしれない。イヴ・サンローランが「モードは過ぎ去る、スタイルは残る」と言っていて、やっぱり、あるスタイルを作るとそれは反復的に来る気がしますが、そこに「ワー」っと群がっただけのものは過ぎ去っていくと思います。

山口 人類って200万年前から本質的にはあんまり変わってないらしいのですが、平野さんは、「カッコいい」を「痺れる」感覚が付随すると言っていますよね。それは脳の辺縁系というか、奥の方で感じているはず。つまり類人猿の頃からあった身体感覚みたいなもので、人がカッコいいと思うものって、100年経とうが200年経とうが変わらないと思うんです。
僕は、利休の茶器とか茶室とか、やっぱりカッコいいなと思います。450年経っても、当時の人達がカッコいいと思ったものは、いまだにカッコいいと思えるし、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描なんていうのは、今見てもカッコいいなって思う。痺れ、カッコいいという感覚が非常に原始的な脳の部分で反応しているとすると、本当に人を痺れさせるような何かがそこにあれば、一時的にはある程度の揺れや動きはあったとしても、そう簡単に廃れるものではないと言えるかもしれないですね。

平野 丁度今、ユヴァル・ノア・ハラリの本とか、凄く流行っているじゃないですか。結局彼が言っているのは、200万年ぐらい前の、遺伝子的な特徴がずっと続いているのではないか、ということですよね。雷がドーンっと鳴ったり、火がワーって燃え盛っているのを見たら、体が反応するというのが、確かにあると思うんです。
その一方で、カッコいいという言葉は自然には使わないですよね。木や犬とかを見てカッコいいと言うことはあるけれど、それは一旦家禽化された動物とか、人間に擬人化されていたり、グラフィックで1回見慣れた何かを経由している。カッコいいって、基本的には人工物とか人間の世界の物だと思うんです。利休の茶室なんて、非常に直線的でミニマルな形で、ある意味全く自然と対極的な驚きがあって、だからゾクッとするのかな、とか。また、人間がやっている事に感動しているとていう事が相当あると思います。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の絵などを見ると、これ一人で描いたのかと、純粋に視覚的なものの興奮よりも、人が作っているところにカッコよさがある場合もある気がしています。

外側から作られる「カッコいい」もある

山口 ところで、「カッコいい」っていうのは内在的な規範なのか、外在的な規範なのかという問題もありますよね。例えば、ビートルズのシェイ・スタジアムの映像を見ると8万人くらい入っていて、演奏を聞けていないはずなのに、皆、失神しまくっているんですね。体感すると言っても、「その体感しているものが一体なんなのか」となると、意外とそこに集まってる人自体がある種の体感の源泉になっていたりする。それは、あそこにビートルズが居る、という概念なんですよね。偽物が多少似たような服を着て立っていても、皆もう体感して、失神しているはずなんですね。だから、体感というものは、外在的な情報、つまりビートルズが居て、皆大興奮しているっていう、その抽象化されたメタ認識そのものが、興奮を生み出しているのではないかと思います。

平野 そうですよね。カッコいいという言葉が日本語として広まったのって60年代ですけれど、60年代にロックに触れた時のお客さんの反応って凄いんです。今のロックコンサートの若者たちよりも遥かに過激に絶叫していて、バタバタ失神してる女の子もいるし、もうトランスみたいな感じで。
それで、やっぱり何が「しびれ」させるかっていうのは、複数の要因が一体になっているんですね。ロックのコンサートというのは、ライティングなどを含めて、「しびれ」をどういう風に引き起こすかという蓄積がずっとあり、時代的な事もある。戦争が終わって、やっと皆が自由になれて、貧しさからも抜け出せてきて、というような。あと、単純に人が沢山いて、皆の大声と汗と絶叫の唾が飛ぶ中で自分も居るっていう事にもね。

山口 平野さんのこの本の中では、ライブの仕組みはナチが作り出したシステムで、人を痺れさせる事を人為的にやる事だと。非常に陳腐な演説も、崇高なご託宣の様に聞こえさせる。そういう、ある種の歴史的な傷を負っているという事は意識しなくてはいけないと、書かれていますけれども。

平野 やっぱりあのやり方は今でも簡単な政治的プロパガンダに転用できるし、その事は無かった事には出来ないと僕は思っています。

山口 内在的か外在的かという話に関していうと、要はもう、最終的に脳に入る情報全てが人に痺れを起こさせるから、音楽そのものじゃない、周りの色んな情報も影響する。それはそれで分かるのですけれど、例えば、ある世界においては、コレをカッコいいと思わなくちゃおかしい、みたいに、カッコよさがある種の権威主義によって出来る。
平野さんは「トップダウンでカッコ良さは作れないんだ」という立場に立っていると思うのですが、流行りは人工的に作り出せるし、それを実際やってきたのが日本ですよね。何を食べているのがカッコいいかとか、どこのレストランに行くのがカッコいいかという事自体がある種のテクノクラシーで、上から情報を与える事によって操作出来てしまうという側面がある気がします。要するに、カッコ良さは実力主義というだけではない部分もあるのかなと思います。

平野 何をカッコいいと思うかは皆違うし、文化的に作られているものは、かなりあると思いますよ。カッコ良さというのは、感覚的な物だけではなくて、生き様とか、その人の存在自体に憧れるみたいな要素もあるので、やっぱりカリスマ的な人の魅力とか。スティーブ・ジョブズとか、あの人の存在感がブランドを相当カッコ良く見せていたし、死んじゃった後は、「ちょっとしびれない」というファンもいますよね。

過去の過去化が難しいストック情報の時代

山口 70年代ぐらいまでは、カッコよさの収斂というか、ある意味でカッコ良さの多様性が無い時代だったと思うんですね。世の中に出てくる情報は、新聞も雑誌も基本フローで、その時代のコンテンツしか流れてこない訳です。強く流れてくるコンテンツには当時の時代性が反映されて、何が新しくて何が古いか、コントロールしやすかったと思うのです。
けれども、今の若い子を見ていると、ほとんどがもうYouTubeで、フローを見ておらず、ストック情報を見ている。見ている映像はそれこそツェッペリンかもわからないし、ビートルズかもわからないし、クイーンかもわからないと。これって、カッコ良さというものが同時代性みたいなものと必ずしも紐づかない気がします。そしてどんどんカッコ良さを人工的に生み出す事が難しくなっている。過去のストックとか、カッコ良さそのものの、ある種ダサい化がやりにくくなっていて、過去の過去化が非常に難しくなっていると思います。

平野 広い意味でコンテンツ産業と言うと文学も正にそうで、今後永遠にデジタルデータで絶版にもならずに世界文学が蓄積されていくと、その中でコンテンポラリーの作家が生き残っていくのは大変ですよね。ただ若い世代は単純にそういった過去を知らないという事も起きているような気もします。だから、新しい事やっている人は、自分が今やっている事がクラシックなものと連続している事を、インタビューとか自分の仕事とかを通じて整理が付けられるのであれば、そこに自分を接続するという事は、出来るのではないのか、という気はしています。その上でカッコいいものを生み出すのは、難しいですよね。でも、人に関していうと、やっぱりカッコいいと思われている人は、相当自分を客体化して見ているのではないですか?

山口 ある意味自分で自分を演出して、どんな服着せて、どんな物食って、どんな所住んで、みたいな。プロデュースですよね。

平野 だから、もし自分がカッコいい存在になりたいと思う人がいれば、自分が写っている映像などを見て反省しないといけないのではないかと。後はもう1つは、この1年ぐらいで物凄くサステナビリティとか、環境問題とか言われているじゃないですか。やっぱり地球環境などは、タイムスケールが物凄く長いから、数年単位の流行に左右されてダサくなる事が比較的少ないのではないかと思います。地球環境に根差した事をやっていくのは、10年経っても20年経ってもカッコいいままなのではないか。会社のイメージや、どういう風にカッコよくなったらいいかっていうところで、揺るぎのないものを考えようと思ったら、タイムスケールの長い事において、正しい態度をとる、というのは1つカッコいいという気がしますね。

山口 正に企業もこれからはカッコいいを追求していかなくちゃいけないのですけれども、「カッコいい」「カッコ悪い」の議論になると、人間関係にコンフリクトを起こす可能性があって。ダサい物はダサいと言わないと、企業の場合は業績が下がってしまうので、これは中々難しい時代になってしまったという事になっているかと思います。そういう意味で言うと、何かセンスの合う人同士でコミュニティを作って、それが会社のようになっていかないと、カッコいいということで勝負出来なくなってしまうのではないか、という気がするのですが。

平野 本当に難しいですよね。コレがなぜカッコいいかを説得するというのは、極端に言うと、痺れるものがあるかどうかみたいなレベルの話だし。世界中でカッコいいものとして成功しているもので、僕が見てさっぱり価値の分かんないものなんて、山ほどあるから。

山口 ある意味でニュートラルなものほど、どちらでもない事が多い気がするんですね。つまりダサいと言われないようにしようと思ったら、それこそファストファッションみたいなものになっていって、誰からも「ダサい」と言われないけれども、誰も痺れさせる事も出来ないものになってしまい、それだと経済価値を生み出せないと思うのです。ダサいっていうのはなるべく言わない方がいいのですけれども、本当にカッコいいものを集団で生み出していこうと思うと、「コレはダサくないか?」ってどこかで言う勇気は必要だって事かもしれません。(了)