六本木アートカレッジ SPECIAL 1DAY 2022
セッションレポート
vol.3

物語を「書く」ということ

モデレーター: ロバート キャンベル 日本文学研究者

Profile

ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。

ゲスト: 綿矢 りさ 作家

Profile

1984年京都府生れ。2001年『インストール』で文藝賞受賞。早稲田大学在学中の04年『蹴りたい背中』で芥川賞受賞。12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞受賞。ほかの著書に『ひらいて』『夢を与える』『勝手にふるえてろ』『憤死』『大地のゲーム』『手のひらの京』『私をくいとめて』『意識のリボン』『オーラの発表会』などがある。

Overview

六本木アートカレッジSPECIAL 1DAYの3時間目は、作家の綿矢りさ氏をお招きし、「物語を『書く』ということ」をテーマにお話しいただきました。日常に潜む痛みを、時に鋭く克明に、時に温かく繊細に描き出す綿矢氏。21年にはコロナ禍の日常をつづったエッセイを出版なさっています。非日常が日常となったコロナ以後の創作活動や、そこから見えてくる「書く」という行為の本質について、日本文学研究者のキャンベル氏とともに対談いただきました。

小説と、コロナが存在する社会

キャンベル

綿矢さん、私たちが出会うのはこれで二回目、ですから再会ということになりますね。前回は、小説家や翻訳者、編集者といった方々とワインを飲みながら、目的もなく語り合う空間でお会いいたしました。おそらく三、四年前だと思うのですが、記録もされず、成果も求められず、しかし人々が集まって繋がる、そういった対面による出会いは、今となってはますます大事であるように感じられますね。

綿矢

そうですね、なつかしいです。初めてキャンベルさんを見たとき、とてもお洒落な方だなと思いました。今ではあんなに大人数で、マスクも無しに話せませんし。

キャンベル

小説を書く方というのは、結構な時間、一人の静かな空間を必要としますよね。だからこそ取材をしたり、人の声を聞いて外の空気を取り入れるといった話を友人の小説家たちから聞くのですが、綿矢さんはどうでしょうか? この二年間、コロナで行動も制限されていたと思いますが、書く行為というか、場というのは何か変わりましたか?

綿矢

私は元々部屋で書いていたので、書いている時はそんなに変わらないと思います。ただ、ロバートさんとお話しできたような場所に行って遊んだりとか、そういった「書く以外」の楽しみは確かに減りましたね。生活のなかでの人との触れ合いが小説を書く刺激にもなるので、気づいていないだけで変わったところも多そうです。

キャンベル

これから先、静かだけれど引かない波のような、この感染症というものが大きくなったり小さくなったりする私たちの日々が、何か小説に影を落としたり、あるいはエネルギーを与えたりしますでしょうか。

綿矢

小説の題材としては、コロナが存在する社会はとても書きごたえのあるものだと思っています。それは、感染するがゆえに、人と人が会うということを考えるからです。また見えないものだからこそ、映像よりも言葉の方が届きやすいのかな、と。私は恋愛をテーマにしたものが多いのですが、恋愛はコロナがあるとないとでは、やはり変わってきます。他の方が書かれるコロナの小説やエッセイを読んでみても、すごく生き生きしているといいますか、文章と社会の荒波との相性は非常に良いなと思っています。皮肉っぽい場面も、自然と生まれてしまうし。

文学は語る場となり、孤独に寄り添える

キャンベル

コロナというと、隔離であるとか、病死であるとか、あるいは、最後を看取れないとか、ともかく人が引き裂かれるというとても悲しい事態がついて回りますね。ただ一方で、恋愛といった視点で考えると、世帯であったり、部屋であったり、そういう一つのユニットが求心力を持つ。その人たちの間でしか息を共有できない空間があり、うつす、うつるといった関係性は、強い結びつきという風にも捉えられます。

綿矢

人と会うのもちょっと決意がいりますからね。その中で工夫してどうにかして特別な関係性を築いていくとか、相手のことを思いやりながらも、自分の会いたい気持ちを抑えたり、抑えなかったり、そういったことは映像よりも言葉の方が割と届きやすい分野なのかなと思います。小説であれば、その時主人公や登場人物の考え、微妙な表情を書き込めます。例えば、コロナをとても気にしている人もいれば、そんなに気にしてない人もいる。親しくてもそこに差があったりして、そういった心の差異は自分で書いても面白いですし、読んでも面白い。自分と同じ考え方の人が周りにどのくらいいるか、こういったことは誰しも気になるわりに、意外とわからないものですよね。小説はそういうところに寄り添うことができるものだと思っています。コロナのようなデリケートな問題は、「いや、そんなことを気にしていたら疲れてやってられないよ」というような本音を、口で言ったりすると不謹慎に聞こえてしまいますよね。でも小説という物語の中で誰かが言えば、「あ、これぐらいの考えの人は自分だけではないんだ」と素直に思える。

キャンベル

物語であるがゆえに、誰かの権益を脅かすということがない。そういった文学の特質は、こういう平常ではない時に効用があるのだと思います。今、綿矢さんが仰ったように、ある意味、他人事として読める。向こうに登場人物がいて、こっちに読者がいて、真ん中に綿矢さんの物語があるとすると、そこで心を合致させる、同期させる必要は全く無いわけですね。ですから、「こういう人はダメだ」ということを自由に言い合える土俵のようなものになる。それは戦争や貧困、災害がある時代において、文学が持つ面白さかなという風に思います。

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この先の内容は・・・

  • 自分とは異なる人へのまなざし―『蹴りたい背中』
  • 綿矢りさの「書き始める瞬間」
  • こんな時代だからこそ、これからも「書く」