六本木アートカレッジ「SPECIAL 1 DAY」クロージングトークに、東京藝術大学大学院教授の長谷川祐子氏と、テレビでもご活躍の脳科学者、中野信子氏が登場。一見敷居が高く近寄り難いと思われがちなアートですが、歴史を紐解くと、社会集団の形成や、人間の生命力にまで影響を与え、一人ひとりの人生に密接に関わってきたことが分かります。モデレーターのスマイルズ代表遠山正道氏がお二人に問いかけ、史学的に、そして脳科学的に人類がアートと共に生きてきた必然性を考察していきます。
美を認知するのは、脳の前頭葉という部分なんですが、実は美には2種類あって、それぞれ前頭葉の違う場所が認知しています。例えば夕日の美しさや絶景美は世界共通で、時代によっても変わりませんよね。でも、時代によって変わる美もある。ちょっと前まではカッコ良かったものが、すぐダサくなることがしばしば起きます。長谷川先生の研究室で、私はこういう事象を神経科学的見地から研究しています。また、長谷川先生は日本のアート界で最も影響力のある女性ですので、ロールモデルとして学びたいという気持ちもありました。
今日のテーマ「アートの無い世界で人は生きられるのか」について、長谷川先生はどのようにお考えですか?
NOと明言できます。動物は自分がなぜ生まれてきたのかとは考えませんが、唯一、人間だけは違います。そして、考えるということは、ここにないものを想像する力がある証拠で、つまりアートと関わってくる。例えば、原始的なアートである洞窟壁画が描かれた理由を探ることは、アートのある世界のヒントになるかもしれません。洞窟壁画では、狩猟民族が目の前の動物を捕まえて生きていた様子が描かれています。壁画がとても見づらい位置に描かれていたりするのは、ただの鑑賞が目的ではないことを示唆しています。これまでの研究では、壁画を通じて、現実世界を把握し、恐れを克服する力を得ていたと考えられています。
いわばメタ認知ですよね。自分自身を客観的に見る能力があった証拠です。
洞窟壁画ってどうやって描くんですかね?暗いし届きにくいし。どこかに下書きしていたのでしょうか?
手元で練習はしていたかもしれませんね。ただ、洞窟壁画は美しさだけを問うものではなく、コミュニケーションの目的もあったと言われています。例えば、有名な「ネガの手形」と言われる洞窟壁画では、絵を描く能力が無い人が自分の手形を残すことで、私はここにいた、というひとつの信号を残したのではないかと。
古代人も、手は人間を代表するパーツであることを認識していた、という今の話は、体性感覚の区分を図解する「ホムンクルス」を思い出しますね。人体で感覚の鋭いところ、よく動かす場所は、脳の領域を大きく占めています。背中はちょっとしかありませんが、手は非常に大きい。
確かに背中の絵を洞窟に描いても伝わらないですよね。
背中を洞窟の壁にすりつけてみても如何なものかと(笑)。
先々週、本場リオのカーニバルを見てきました。日本のお祭り同様に、人々が1年間心血を注いで準備をし、たった一晩だけパレードをします。人は日常から離れたカタルシスの瞬間によって自分をリセットすることができますよね。哲学者のバタイユは、産業革命以前は、こういう贅沢で無駄なもの、つまり非生産的な消費が当たり前のように行われ、それによって人々の心が浄化されたり救われたりしていたと言っています。続けて、近代以降に無駄扱いされてからは人間の器や感覚、いろんな物を作る際のダイナミクスがどんどん小さくなっていったとも。生産的で役に立つことばかり考えていては人間がダメになるという警鐘かもしれません。
1年間かけて準備をするというような時間感覚を持つのは、脳科学的には側頭葉と頭頂葉の間辺りにある頭頂側頭接合部です。ここは時間感覚と共に空間認知や道具の使用、メタファーなどを同時に処理する、要するにアートな領域といっても良い。私たちは時間性のあるものに美しさや荘厳さを感じますが、それはこの脳の仕組みと関係があると推測できます。また、祝祭の意義に関しても、確かに個体が生きていくためだけなら必要ないでしょうが、集団が集団として生き延びるには、アート同様必要です。無駄なものが許されない集団というのは、滅びます。
それもう一度言ってください、先生!
無駄が許されない集団というのは滅びます。
上司に聞かせたいですね!(笑)
遠山さんのされていることは、そういう意味で非常に先駆的だと思います。他方、無駄なものが許されない社会というのは、短期的な効率の良さでは確かに勝つことができるでしょうが、物心両面で非常に早く終わりを迎える脆弱さがある。多様性が保持できない集団は、歴史的にもその都度滅びています。その一番の例がハプスブルグ家ですね。遺伝子の多様性を失って、最後は遺伝的疾患で滅びました。無駄を許すということを象徴的に行う集団とそうでない集団では、前者の方が生存適応的であっただろうと考えられます。祝祭が長年残ってきた意義もそこにあるでしょうね。
ところで、年に一度の非生産的なものによるカタルシス、お二人にはありますか?
今と違う状況に身を置くということが大切だと思っているので、私の場合は旅行です。おとといアマゾンから帰ってきました。あとはダイビングでしょうか。年に1回は自分が制御できない特別な場所、環境に身を置いてみないと、自分がいかに傲慢で弱いかということを忘れてしまいます。自分の意識や感覚をうまくリセットし、鈍くならないようにしたいですね。
私のカタルシスは苦手な人としゃべることです。意外に思われるかもしれませんが、私にとってテレビ番組に出ることはハードルが低くなく、苦手な人が稀にいるんです。そういう方とどうコミュニケーションを取るかを考えるのが面白くて、学びや刺激が多いです。
私の場合は、優等生的な答えになりますが「アート」ですね。今まで芸術祭などにスマイルズが作家として出品し続けてきました。ビジネスをコンテクストにしてアートを続けてきたので、今ではスマイルズとアートは切り離せませんし、先ほど「非生産的なことが無ければ滅びる」というお話もあったので、滅びないためにもアートを続けていきたいですね。
アートについて概念や古い人類の歴史からの考察をして頂きましたが、もう少し現代寄りに考えるとどうでしょう?
建築家の石上純也さんの作品で、「四角いふうせん」というテーマのものがあります。1000立米(m3)の立体がヘリウムで浮いている、要は4階建てのビルが浮いている状態という、驚きに満ちた作品です。鏡面の表面が周りを照らし、リフレクションしながらゆっくり回るので、見ているとメディテーション感覚も与えてくれます。建物の概念を変える、つまり空間を変えるというのが石上さんにとっての建築のコンセプトです。
本当にしびれる作品ですよね。空間を変容させてしまっている。現代アートは、誰も思いつかないものを、現実の形で目の前に突き付けるような作品が多いですね。
現代アートと近代以前のアートの違いを考えると、近代以前の美というのは皆が見て美しいと思える最大公約数であったのに対し、現代アートの捉え方というのは、美ではなくて「クール」なんですよね。現代には美しいものを時にダサイと捉える感性があります。ダサいダサくないを判断するのは、脳の眼窩前頭皮質という部分。ここは社会脳とも呼ばれ、相手の顔色を見ながら自分のふるまいを決めるという社会性の高いところです。現代アートは恐らくここを刺激するものだろうと思います。「今の社会のあり方とは?」という問いを前提にした上での新しさや、皆が当たり前のように思っていることに異なる解釈で切り込んで見せるようなアートが、クールと認識される時代です。
今、現代アートというのは、美の概念というよりはコンセプトが格好良いか否かに見方が寄っていますよね。逆にルネサンスの頃だと、信じる、信じないというような判断基準やプロパガンダみたいなものが強かったのではないかと感じます。
そうですね。宗教芸術をアートとして評価するのは邪道だという考え方もありますが、聖像という名のアイドルをたくさん作って、教会の中を荘厳で天国にいるような雰囲気にさせたカトリックの戦略はすごいと思います。死後には現世を超えた世界があると感じさせたり、生存の不安を取り除いたり、人知を超えたものに対する渇望とかエネルギーを生むのが宗教芸術の役割でした。
宗教芸術は敵に勝つための集団結束にも非常に役立ちました。
企業でいえば企業理念に近い。
そういう意味では、文字も元々抽象化された絵であり、文字を持つ民族、つまり抽象化する能力を持っている民族とそうでない民族ではどちらのほうが戦って強かったかを、今後エビデンスが出るように研究したいですね。抽象化の能力というのは、アートを作る根源だと思います。その能力が民族性に帰結するのではないかという仮説は興味深いですね。
以前あるアーティストから、「私、アートしかやっていなくて請求書1つ書けないんですよ」と言われました。それを聞いて私、急に楽になったんです。アートって勝手に神格化されて敷居が高いイメージがありますよね。でもアーティストが請求書を書けないと知り、より身近に感じました。
アートはその時代を反映しているので、見る側の皆さんも積極的に心をオープンにして見ていただきたいですね。アーティストたちは自分の直感で時代を吸収する役割をしています。彼らがいろんな意味でのクリエーションを自由にできるよう、資金面やマネージメントのサポートをする人が増えることを願っています。私はよくエコロジーという言葉を使いますが、良いアーティストがいるだけでも、それを理解してくれる少数のコレクターたちがいるだけでもダメ。皆が「このアートがあって良かった」と思えるような共感が生じ、そこからサポートの輪が広がるような、循環のエコロジーができていくことが理想ですね。
サポート環境を育てるためには、見る側がアートとの距離を縮める必要がありますよね。「私、アート分かんないんですけど」という枕詞をよく聞きますが、すごくもったいない。そこを取り払える勇気やきっかけが一人ひとりにあれば、アート全体の土台が押し上がっていく気がします。
アーティストというのはとても自由なのですが、ただ滅茶苦茶やっているわけではなくて、美しさや複雑さを利用して人の心を打とうと自分なりに考えながら活動している。そこを理解できると良いですね。
アーティストのように自由の中で自分の意志を発揮するってすごく大変で、だからこそリスペクトできますよね。人って、決まっていることをやるほうがよっぽど楽ですから。
これは創造力とアウトプット能力の有無の問題です。創造力の有無の判断はなかなか難しいです。ゼロから作ったように見えても無意識の記憶とのコラージュだったということがしばしばあります。ですから、創造力がないと自覚し、もっと欲しいとお考えの方は、自分が選ばないようなものを敢えて見る、自分とセンスの違う人と付き合うなどすると良いと思います。アウトプット能力に関しては、トレーニングしかありません。
創造力は、つくることに主眼が置かれがちですが、見たり聞いたりしながら反応することも非常に重要と感じています。鑑賞者のリアクションや解釈が大きければ大きいほどアーティストにフィードバックされるのです。つまり、美術史家やコレクター、観客のリアクションがアーティストとアートそのものを育てるんです。その端的な例はアジアで、アジアのアーティストも台頭してきていますが、同時に鑑賞する側の土台も整ってきています。先ほどのエコロジーの話と関連しますが、ひとりで創造力を発揮しているわけではないのです。
最初から大きいことを目指さず、小さいところから始めるのが賢明だと思います。石上さんの場合、最初10メートルの薄い鉄板のテーブルをエンジニアと作って皆を驚かせたのです。これも同様に構造設計を専門とするエンジニアと一緒に作業を行ない、最初は小さい模型から始めました。「小さい模型でここまで実現したので、今のノウハウを活用すれば1,000立米(m3)も実現しそう」と思わせるように、方法論を詰めていました。その過程の中で、周囲の人を石上さんのヴィジョンや知識に引き込み、具体的には、美術館や画廊でのスポンサー募集や、コレクターへのプレゼンテーションも行っていました。実は私も制作過程を見て、壮大なアイデアに魅了された1人です。今までの実績や、作家自身が元々持っている内的な力やヴィジョンが大事で、それがプレゼンテーションの源になります。もし大きな作品を目指すのなら、ご自分の実力や制作過程をきちんと見せられるように準備をし、徐々にコンセプトを形にしていくのが良いでしょう。付け加えるならば、失敗を恐れないキュレーターを見つけるのも大事です。
現在、脳科学者である中野さんは、長谷川先生の研究室に入られていると伺っています。なぜ入ったのですか?また、脳科学とアートはどう関連するのでしょう?