六本木アートカレッジ スペシャル1DAY
セミナーレポート

人間にとって「意味」とは何か?
~「意味」を持たないゴリラの世界から見た人間の世界を考える~

山口周
独立研究者/著作家/パブリックスピーカー
Profile

1970年東京都生まれ。独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『武器になる哲学』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。

山極寿一
京都大学総長
Profile

1952年東京都生まれ。京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。理学博士。ルワンダ共和国カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンター研究員、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授、同研究科長・理学部長を経て、2014年より第26代京都大学総長。人類進化論専攻。屋久島で野生ニホンザル、アフリカ各地で野生ゴリラの社会生態学的研究に従事。1992年よりコンゴ民主共和国で人と自然との共生を目指したポレポレ基金というNGO活動を推進。日本霊長類学会会長、国際霊長類学会会長を歴任。現在、日本学術会議会長、環境省中央環境審議会委員、総合科学技術・イノベーション会議議員を務める。著書に『ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」』(毎日新聞出版)、『「サル化」する人間社会』(集英社)等。

Overview

六本木アートカレッジ1Dayオープニングは、京都大学総長でゴリラ研究の世界的権威である山極寿一氏と、シリーズのディレクター 山口周氏のトークセッションからスタートしました。ヒューマニティあふれるコミュニティーや社会のあり方、新たな「気づき」のヒントの得方、そして「これからの生き方・社会の意味を問う」トークセッションの様子をお届けします。

人間だけがもつ言葉というフィクションの世界

山極 私はアフリカのジャングルに毎年40年以上通って、ゴリラの群れの中で彼らと同じ身体環境を持ちながら、ゴリラってどういうことを感じながら暮らしているのだろうということを見てきました。人間は700万年前にゴリラ・チンパンジーの共通祖先と分かれてから進化しました。その過程を化石に頼るのではなく、人間に近いゴリラの生活から見通してみようと思ったのです。

いま山口さんと向かい合って話していますが、こういうことはサルにはできません。でもゴリラやチンパンジーはできるのです。彼らは言葉を喋らないけれども、向かい合って互いを探り合い、気持ちを合わせながら何かを提案しようとする時間を持ちます。人間は言葉に頼っているから、言葉の意味でお互いが乗れるか乗れないか決めていきますよね。しかし、言葉のない彼らは、腹の探り合いや、自己主張をしなければならない。自己主張しすぎると嫌われるし、自己主張しないとわからない。そういう中で生きているわけです。五感は人間と一緒なので、同じ五感を使っていながらまったく違うように生きています。

人間が言葉をしゃべり始めたのは、せいぜい7万年~10万年ぐらい前で、700万年という進化の時間からするとつい最近に過ぎません。言葉がしゃべれるようになってから「意味」が出てきたわけです。ゴリラの生活を見ても、我々がこだわっている「意味」などありません。生きる「意味」なんて彼らは持っていないのです。

「共にあるがままにある」ことが彼らにとって楽しいことで、仲間と一緒にいることが大きな影響力を持ちます。我々はそういうことをすっかり忘れて、言葉によって作られたフィクションの中で暮らしているわけです。我々の着ている服や今日のセッションも、すべてフィクションです。そのフィクションの中に、何らかの意味を見出せるからこそ、その意味を共有しようとして我々は対峙しているわけです。でも、ゴリラの世界から見れば、そんなの幻想だよって。人間はとても不思議な世界を作ってしまったものだなという気がします。

人間と犬にある白目の意味とは?

山口 いま社会では物理的に集まることが難しくなり、オンライン配信のセミナーや会議など、一気にそういう働き方やコミュニティーの在り方が浸透してきています。ある意味で究極というか、言葉だけが電子空間を動いて、コミュニティーや組織が作られ、さらに推し進める動きですね。

山極 対話と演説のように相手の人数によって話すことは、まったく違いますよね。対話は、僕と山口さんが顔の表情を見ながら話をしていて、私が話している最中でも山口さんの顔の表情が変われば、これはちょっと違うかなと頭で考えながら話しています。僕が言っていることが誤解されていると感じれば、その場で訂正します。でも、演説では聴衆の表情は捉えられない。さらに、オンライン上で皆さんに向ってしゃべっていても、顔も見えないし声も聞こえてこないわけだから、これは一方向ですよね。もちろん双方向的なZOOMなどを使ったやり方であっても、それでも限界がある。やはり生の現場で一緒に向かい合いながら話をするのが基本であって、その延長線上に向こうがある。

山口 そうですね。情報というと、文字や数字で書かれたものだと誤解されているケースが結構あると思いますが、実際には体感できる温度であったりとか、匂いであったりとか多様にありますよね。先生は、ゴリラや霊長類にはほとんど白目がない、人間がなぜ白目を持つようになったのかは、表情から記号や情報を読み取る一つの機能として進化してきたのではないかと仰っていますよね。

僕らは文字や記号・数字だけが情報と考えがちなのですが、実は情報ってものをセンスする豊かな機能が身体には本来備わっていて、ゴリラや霊長類というのは文字とか数字を使わないかわりに、他の媒体を通じて非常に豊かで精密なコミュニケーションを行っているということなんでしょうか?

山極 パラドキシカルな話があるのですが、自分の顔って見えないですよね。自分の顔がどういう表情をしているのかは、僕だったら山口さんの表情を見ながら判断するしかない。しかも口だとか鼻だとかは、自分で何とかコントロールできるけれど、目、白目の動きはコントロールできない。だから、言うなればすごく正直な信号なんです。それによって相手の内面、気持ちを感じているわけです。これはなんかわかってくれそうだなっていう案配を頭の中で判断しているわけです。でも、しゃべっているほうの自分の目だとか顔はわからないわけだから、パラドックスなんです。

山口 なるほど。今ちょっと思ったのですが、サングラスって、ある種の反抗の象徴だったりしますが、たとえば大学の授業でサングラスを掛けたまま教室にいると、不気味な感じがしますよね。私や皆さんも感覚としてあると思うのですが、サングラスをかけたままの人となかなかコミュニケーションが取れない、ある意味畏怖感を覚える。それは白目が読めないがゆえに、相手がどういうふうに思っているのか、また、ある種の弱さみたいなものも隠せてしまうということを本能的にキャッチしているのかなと思ったんですね。

山極 やはり目というのはすごく大事な手掛かりだと思いますね。面白いのはね、犬にも白目がある種類がいるんですよ。サルにはありません。人間に一番系統的に近いゴリラにもチンパンジーにもオランウータンにも、そしてオオカミにも白目はありません。白目があるのは、対面して相手の目を見ながら気持ちを探ることが習慣になった人間だけのものなんです。おそらく犬は家畜化されてから、自分の気持ちを人間に理解してもらうように進化したのではないかと僕は思います。

いい加減に正解を求めるような社会や人生のほうがおもろい

山極 もう一つ、コミュニケーションという点で言えば、対話というのは直感なんです。過去の経験がもちろんある程度左右するとしても、相手が何を感じているかでいえば、出たとこ勝負です。それは、言葉をしゃべろうが、しゃべらないゴリラを相手にしようが同じです。どういう展開になるのかは、いくら予想してみてもわからない。すごく重要なことは、そこで大失敗をしないことです。

特にゴリラみたいに言葉が通じない相手で、なおかつ人よりも身体の大きな相手に対しては、生死を争う対面になるから、絶対に間違えてはいけない、でも正解でなくてもいいという気持ちで臨まないといけません。そうしないと大怪我します。そこを間違え、僕も大怪我したことがあります。

人間も、かつてはおそらくそういう風にして生きてきたのではないかと思います。今の世の中のように、常に正解を求めるような、最適解を求めるようなことはやってこなかった。僕はそのほうが面白い世界だと思います。不正解でなければ、正解は沢山あるわけですが、最適解っていうのは、その場限りのものだし、もしそれがあたったとしても状況が変わればすぐ不正解になりかねない。これが今日のテーマにあたるかどうかわからないけど、役に立つというのは、すぐに役に立たなくなる。そこで最適解を求めるというのは、僕は間違いだと思います。

大失敗をしなければいい。失敗はいいんです。自分の命を落とすような大失敗をしないように心掛けて、いい加減に正解を求めるような社会や人生のほうがおもろい。

山口 関西流な考え方ですね。

山極 人間は他の動物と同じように、あいまいなものをあいまいなままにして生きてきたのではないかと思います。今、AIやロボットを使って、とにかく最適な解を求めようとしている。確かにAIは膨大なデータを一瞬のうちに解析して、そのデータから一番目的に沿った解答を出してくれる。しかし、それは本当に我々が求めているものなのか、我々がハンドリングできるものなのかどうか、もう一度考え直した方がいい。最適解ではないけれども、いろいろ応用範囲の広い正解があるはず。それが、言葉を持たない動物とつき合っているとよくわかります。場の状況とは、自分が対峙している相手だけではなく、いろんな個体やゴリラではない動物もいて、それらすべてが環境刺激として、ゴリラにも自分にも伝わるなかで、最適解を求めるのは無理なのです。

だから、相手の反応を見ながらとりあえずやってみて、相手と一緒に状況を作り上げていく必要があります。状況というのは、自分と相手というように切り離されたものではなくて、その環境条件に応じて自分と相手が共同作業をして変えていく、それがコミュニケーションです。

我々が猫や犬と接している時は言葉が通じない。でも人間は言葉を投げかけて、多分犬は人間の千倍もある嗅覚で人間の反応をうかがっているはずです。どちらも最適解じゃないけれど、何となく合意したように物事が進んでいく。

それでいいし、その方が楽ですよね。なんでお互いが求めるものを一致させなければいけないのか、お互いが求めているものの最適解を求めなければいけないのか、わかりません。

つまり「最適解ではないもの」は、いかようにでも動けるもので、人間の自由を広げてくれるものです。そういう自由度を軽視して、常に過去のデータから算出された最適解を求めていくと、みんな同じような解になり、共倒れになり、自由度がなくなっていく。対話や付き合いの中から、これまでにはなかった新しい、おもしろい考えを見出すことができなくなる世界になるのではないかと心配しています。

「役に立つ」と「意味がある」

山口 「役に立つ」というキーワードは3年ほど前に思いついたのですが、役に立つということで、日本はある意味すごく経済的に成長しました。家電は役に立つ典型です。役に立つというのは、数学的に言うと効果関数で記述できるということですよね。冷やせるとか、快適にするとか、あるKPIを立てて効果関数で記述させる。効果関数を切り換えることは人間の仕事なんですが、効果関数の中で最適なものを出すのは人工知能のほうが圧倒的に得意なわけです。人間に残された仕事というのは、意味を創ることかなと思っています。

山極 人間以外の動物は、意味を持ちません。意味を持たないけれども、「幸福感」は持っている。幸福感とは何かというと信頼できる仲間と一緒にいるという時間が幸福なんですね。人間もそもそもそういった幸福感を持っていたんですね。その時間というのは効率化できませんし、生産性という面からその時間を解釈することもできません。自分の利益や効率性、生産性だけを追求していくと、自分と同等な相手を求めることになる。でも、人間の社会は互いに違う者どうしが寄り合うことによって作られる。今、LGBTI、障がい者、高齢者の人たちの在り方を個性と認めて、日常の暮らしの中になるべく多様な生き方を作っていこうという動きがあります。その狭間に我々は今いるんですよね。

ゴリラを見ていて感動するのは、彼らは仲間を効率性で見てないんですね。生産性でも見ていない。どんな障がいを持とうと、どんなに身体の大きさや個性が違おうと、一緒にいる相手に対しては、その相手と同調しようとする。仲間として扱おうとする。その中でいろんな生き方が生まれてくるわけです。彼らはいつも一人じゃない。一人でいるゴリラもいるけど、すごく寂しそうで、やっぱりみんなと一緒にいたいと感じている。

人間も進化の過程でその信頼できる仲間の数を増やそうとしてきました。それはダンバー数と呼ばれ、だいたい上限は150人ぐらいと言われています。言葉や通信機器が発達し、その数は一見増えたようにみえるけれど、実は増えていないのです。

我々が幸福感を感じるのは、本当に信頼できる仲間と共に過ごす時間なのですが、その過ごし方が今問題になっています。資本主義は個人の欲求をどんどん膨らますような形でビジネスや制度を作ってきましたから、個人の時間がすごく重要になりました。でも、個人の時間を作れば作るほど、つまらない時間になってしまうという矛盾も抱えています。

言葉より古い起源を持つ、食べるという行為の意味

山口 先生も書かれていますが、人間の世界でいうと、ホッブズというイギリスの哲学者が「万人の万人に対する戦い」と言っていますよね。食べ物や資源が有限である以上は、必ずその有限な資源を奪い合って人間は戦い合うと。会社組織を一つのコミュニティーと考えた時、会社組織は何らかの資源を世の中から取って分配するというシステムである以上は、どうしてもゼロサムゲームに最後はなってしまうという側面があります。ゴリラのコミュニティーにおいても、基本的には食べ物は有限であって、ゼロサムのトレードオフが必ず生まれるわけですけども、このトレードオフが生まれる、つまり誰かが増えれば誰かが減るということが厳然としてありながら、その信頼関係がゴリラのコミュニティーにおいて維持されているのは何故なんでしょうか?

山極 それがゴリラの数が増えない大きな理由です。集団を大きくして、食をめぐる競争を激化させてしまったら、生きられないからですね。人間は、なぜ76億を超えるような人口を増やしたかというと、食料のキャパシティを増やしたからです。農業革命、産業革命、情報革命等々過去にあって、我々は食べ物をめぐって争わなくてもいいことを条件に社会を作ってきた。でも、それは今やガラスの天井です。人間はゴリラと同じく肉食動物ではないから、毎日食べないといけない。大阪万博が開催された1970年以前は、宇宙食が流行って、「将来的には丸薬で済むんじゃない?」なんて言われていたことがあったけど、それではダメなんです。人間にとっての食は、仲間といっしょに時間を使って楽しむ社会行為なんです。だから、食事という。

山口 あの頃の予言はほとんど外れましたよね。

山極 外れました。食料は単に栄養補給のものではありません。人間の場合、コミュニケーションになっている。それが1日に数回あるということが、人間をつなぎ合わせる接着剤になっています。人間は物語を共有することによって、つながり合っている。食事だけではなく、人間は生きる意味を仲間と共有する物語を創るために労働をしてきたわけです。ところがそれが今、意味をなさなくなっている。残るのは、個人の欲求を満たす労働、生理的な現象として食べるという行為ですよね。

食べるという行為は、言葉よりずっと古い起源を持ち、人々をつながり合わせるためのコミュニケーションの手段となってきました。それを大事にしていかないと、最後の手段である「人々がつながり合う」という機会を逃してしまうのではないかと思います。食物を前にして人々が近づき合うというのは平和が前提となっているんです。食事というのは、元々喧嘩の源泉だった食物をわざわざ目の前に置いて、私たちは争わないと気持ちを確認し合うことが必要条件です。我々はもう既に意識しなくなっているけども、それが前提となって人々が同じ時間を過ごすわけです。

食べるためには時間を共有しなければいけない。それが人々の信頼関係を紡ぐわけです。そういう機会を今の社会で失ってしまいつつあるということは、大変まずいことだと思っています。そして、これからは小さなコミュニティーを個人でいくつも作って、そういうコミュニティーを渡り歩いていく、あるいは複数のコミュニティーに同時に属していくという時代になるのではないかと思うのです。コミュニティーの規模は広げられませんから、そこで人々が信頼を担保に結び付く接着剤が必要になる。

山口 なるほど。コミュニティーの規模を大きくできないというのは大切なキーワードだと思います。大きくできないと人間関係が広がらないし、ひとつしかないということになると、リスクが大きい。コミュニティーの規模を大きくするよりかは、コミュニティーの数を多くしていき、その中で信頼関係を作っていければ、それは先ほどおっしゃられた幸福につながっていくのではないかという考え方ですね。

山極 コミュニティーの規模を大きくする実験は、19世紀、20世紀にいろいろな政治家がやっています。ヒトラーは演説を非常にうまく使い分けながら、大衆の心を引き付けた。あの頃は言葉がすごく大きな意味を持ち、大きな広場を作って群衆を集め、パレードや行進など一斉に同じ動きをさせた。そういうところで、国家に対する忠誠、国に対する高揚感が芽生え、それをみんなに合意させたわけです。そういうことをやって全体主義に陥り失敗したから、今政治に対する疑いをみんなすごく持っている。疑いを持たずにやっているのが、まさにオリンピックと、サッカーなどのスポーツ、そして音楽ですね。コンサートホールには、政治家なんかがとても集められない規模の人たちが集まり、心をひとつにしてウェーブするわけですよ。スポーツもそうです。それは言葉以前に人間が獲得した世界なんです。それによって一時的に人間は心をひとつにできる、共感を味わえる。だからみんな酔いしれたようにそういった会場に向かう。でも逆にこの新型コロナウィルスで、そういうことが禁止されてしまうと、物凄い欲求不満になると思いますね。スポーツや音楽が、この分断されてしまった世の中、個人がバラバラに裸にされてしまった世の中で、辛うじて人々の間をつないでいるんです。イベント厳禁というのは、我々にとってものすごく厳しい結果になると思いますね。

山口 ただでさえ人と人を結ぶ紐帯が脆弱になっている世の中で、最近その音楽産業も、CDなどのパッケージメディアはどんどん衰退しているのに、むしろライブは人が集まるようになってきて、同調することがコミュニティーの維持には大事だと先生は本の中で書かれていますよね。同調の最たるものが音楽であって、リズムに合わせてみんなで一緒に踊ることが連帯というものを形成していく上で非常に重要だと指摘されています。ああいったことができなくなると、社会のある種の分離ですよね。「アノミー」という言葉をエミール・デュルケームが言っています。アノミーとは孤立化ですよね。

今までにないものに「気づく」には?

山極 人間って面白いことに、言葉以上に身体というのは同調しやすくできているんです。ゴリラは一旦自分の群れを離れ数週間経ってしまったら、絶対に戻れません。身体の動きが同調できなくなってしまう。あるいは元のみんなと合意していた身体の動きの中に入れないからはじき出されてしまう。人間は、例え数年、数10年別離をしていたとしても、自分の元いた仲間に戻れます。それは記憶が優秀なだけではなくて、元の仲間に同調できるような身体性を持っているからなんですね。もちろん知能という面でも、記憶を保存していくという能力があるのかも知れないですが、それ以上に文化に身体をなじませることができる、あるいは元の文化にやすやすと復帰できるというフレキシビリティを持っているからだと思いますね。

文化というのはマテリアルカルチャーというか、物に還元して考えるようになってきているので、衣食住に現れる物の違いから判別することが多い。しかし、今のコンクリートの都市化のようになってしまえば、文化の違いも自然になくなる。精神的な文化だけ保存しろと言われても無理。やはり、物、環境というものに文化はすごく大きな影響を受けるので、地域の自然や地域の人々が歴史的に作ってきた物を壊してはいけない。

山口 むしろこういう世界だからこそ、ある種の価値観を持った域、圏域っていうものをコミュニティーとして作り、そこは出入り自由であると。カール・ライムント・ポパーという人が「開かれた社会」というコンセプトで未来にそのパースペクティブを与えましたけど、そういう価値観を持った人であれば、物理的に日本にいなくても、ヨーロッパにいたり、あるいは中東にいたり、僕はここの価値観とか文化が好きだからそこに入りたい、出入り自由でと。そういう世の中になっていけば、いや、いかないとですね。ある種の幸福感ってものを伴って。

山極 これからは、物が移動せずに人が移動する時代。人が移動する、つまり文化はオープンでなければいけない。だからこそローカルな価値観というものを世界に広げていくことができるわけで。そういう前提で人々が異文化の間を動けるというのが条件になって世界は広がっていくんだと思いますね。

山口 まだまだお話しをおうかがいしていきたいのですが。大変刺激的なお話をありがとうございました。新型コロナウィルスのせいで、このようなネット配信という形になりましたが、ここから先の未来に向けてのある種の実験が今行われている状況だと思います。これから先の未来における幸福の在り方、コミュニティーの在り方について、大変大きな洞察をいただけたと思います。

山極 私はゴリラのことしか知らないので。向こうの世界から見て、人間が面白いなって思って、今日も山口さんとお話しさせていただきました。いろいろと話しをしてみると、私自身も随分気づくことが多くて。やはりこれからの人間は「気づき」が大切だと思います。

気づきというのは過去の経験からだけではできません。今までにないものを気づかなければいけないわけで。そのためには直観力が重要なんです。直観力を働かせるためには、いろんなものをキッカケにしていい。そのキッカケから、人々は歩いて動いていくわけであって、それは生物である証なんですね。それを十分これからも利用しましょう。

山口 いろいろ動いて、いろいろな人と出会って対面して対話していくことが大事なわけですね。

山極 それが重要だと思いますね。

山口 先生、今日はありがとうございました。