六本木アートカレッジ スペシャル1Day 2021
セミナーレポート
六本木アートカレッジ2021の4時間目は、東京大学社会科学研究所教授の宇野重規氏をお迎えし、ディレクターの漫画家ヤマザキマリ氏と共に、「民主主義とは何か?を考える 危機においてこそ民主主義の強化を」というテーマでお話いただきました。新型コロナウィルス対策によって浮き彫りになった世界各国の政治や思想を踏まえつつ、今後ますます国際協力が要請される世界で、求められるリーダーシップとは何か。議論の鍵は、古代ギリシャやローマ帝国といった民主主義の原点に立ち返ることでした。
+ Profile
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京都出身。
84年に渡伊、フィレンツェ国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。その後エジプト、シリア、ポルトガル、アメリカを経て現在イタリア在住。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞 受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。
著書に『スティーブ・ジョブス』(ワルター・アイザックソン原作)『プリニウス』(とり・みきと共著)『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『たちどまって考える』など。
+ Profile
東京大学卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
博士(法学)。千葉大学法経学部助教授、東京大学社会科学研究所助教授、同准教授を経て2011年4月より現職。その間に、フランス社会科学高等研究院、コーネル大学ロースクールで客員研究員を務める。
19世紀フランスの政治思想家トクヴィルを出発点に、フランスとアメリカの現代政治哲学を研究し、民主主義、自由と平等、社会的紐帯、宗教などの問題を考えてきた。近年は所属の社会科学研究所の全所的共同研究プロジェクトの希望学に参加したことをきっかけに、日本各地で地域調査を行う。また、現代日本政治に関する解説・評論記事も多数執筆している。
主な著作に『政治哲学へ 現代フランスとの対話』(渋沢・クローデル 賞LV特別賞、東京大学出版会)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(サントリー学芸賞、講談社学術文庫)、『<私>時代のデモクラシー』(岩波新書)、『民主主義のつくり方』(筑摩選書)、『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ)、『保守主義とは何か』(中公新書)、『未来をはじめる「一緒にいること」の政治学』(東京大学出版会)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書、近刊)などがある。
宇野
私は政治思想史が専門です。19世紀思想家のトクヴィルの研究から始まり、民主主義とはなんだろう、という問題にずっと取り組んできました。トクヴィルはアメリカに旅行して民主主義に目覚めるのですが、貴族なのではじめは民主主義に対して偏見を持っていました。政治を行うのは教養のあるエリートであるべきだ、と思っていたわけです。しかし、アメリカに行ってみると、議会で喋っている政治家よりも、普通の町に暮らすおじさん、おばさんの方が、意外に良いことを言っている。それはなぜかといえば、彼らは自分たちの暮らす土地を自分たちの力で動かしている、つまり民主主義が基盤となっていたからです。そこで、民主主義は意外と良い物かもしれないと意識が変わっていったことが、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』という本に表れています。
ヤマザキ
今でも欧州の民主主義とアメリカの民主主義は若干方向性が違うと思うのですが、今のお話でアメリカ民主主義の主軸にあるものが少し分かったような気がします。
宇野
もちろん、トクヴィルは民主主義をもろ手を挙げて褒めている訳ではありません。例えば多数者の専制、つまり数が多い人の声がどうしても小さい声を書き消してしまうという危険もあると指摘しています。しかし、それでも基本的には、普通の人に担われた民主主義がアメリカではそれなりにうまく機能している。フランスは中央集権で全てパリから指示を出す国でした。それゆえ、フランス人のトクヴィルはなんとかフランスをアメリカのように変えられないかなと、考えたのだと思います。
ヤマザキ
なるほど。民主主義というともっぱら政治の理想的解決案だと考えられているわけですが、色々な角度から見てみると、適応するのか、適応しにくいのか、地域によって違ってくるでしょうし、国民性によっても受け入れ方に差異があると思います。たとえば、現代の日本では民主主義というストラクチャーで社会が作られていますが、一方で世間体という縛りが強く、ここ最近は言論や表現の自由も許されないことが多々あります。特にコロナ禍においては人々の思考も視野も狭窄的になり、この国では本当に民主主義というものが機能しているのだろうか、ということを考えさせられることが多々ありました。ですから、今日は難しい話はさて置き、宇野先生に「民主主義はどのようなものでしょうか」という事を伺えたらいいなと、思っております。
宇野
ヤマザキさんがお書きになった『たちどまって考える』、これは本当に素敵な本で、民主主義論もテーマの一つです。しかし、最近、民主主義に疑いを持っている人がとても多いですよね。たくさんの人が政治に参加して、色んなことを言えますから、結局時間ばかりかかって全然決められない。一方で、ヤマザキさんの本に、カエサルという人が出てくる。この人は、独裁者と言われるけれども、ある種の責任感のある人でしたよね?
ヤマザキ
そうですね。統括能力の長けたカリスマ的存在であり、決断力と責任力はあった人だったと思います。
宇野
そういう人物がいるなら、危機の時は独裁の方が良いのではないか、と思う人もいるでしょう。誰か責任感のある人がリーダーとなって、決めた方が良いのではないか、と。しかし、今日はそこに「ちょっと待った」と言いたい。ちなみに伺いますが、ヤマザキさんはカエサルをどう思います?
ヤマザキ
カエサルは普通の人であれば世間による後処理が怖くて出来ないことを実践してしまった人ですが、何せ圧倒的なカリスマ性が身についてることを本人も自覚していたんじゃないかと思うのです。借金をたくさん背負っていましたし、女癖が悪いのに、それでも人には人望があったし女性にもモテた。あの時代はそういう人がリーダー的な資格を持つことができたわけです。後に、宗教的な倫理によって社会が縛られていく中で、比較として考える上では非常に面白い人物なのではないかと思います。ストラテジストですし、戦略も情動性が無い。情熱や正義感に煽られず沈着冷静に社会のあり方や動きを客観的に、そして俯瞰で捉えられる。そのスキルはなかなか比類がない。
宇野
ヤマザキさんは、弁証――ディアレクティックの話もしていますよね。本当に違う意見を持っている人間が真に議論を交わして、「あなたの意見は分かった。でも私は確信をもってこう考える」と断行できるのがリーダーである、と。
ヤマザキ
やはり歴代の突出したリーダー的素質を持っている人たちは、無理やり自分のことを押し付けません。まずは異論を持つ人達のことを分かろうとする姿勢が見られますね。その寛容性が化学変化を起こして、ローマ帝国が一つになる原動力となったわけですから。寛容性、クレメンティアと言いますが、相手に同調できずそこに批判が発生しても、それは必至のコミュニケーションであって、それを経て違いの異質を認め合うという精神性ですよね。それが今の社会では枯渇していると感じています。
宇野
仰る通りだと思います。相手の話を聞いて受け止め、違いをお互いに認め合っていく。その中でものを決めていくということが民主主義においてとても重要です。ところで、この議論はちょっと続きがありまして、それは古代ローマについてです。ローマの街では、マンホールの蓋にSPQRと書いてありますよね。
ヤマザキ
はい。セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌスですね。元老院と民衆のローマ、という意味になります。
宇野
古代ギリシャでは民会に集まって皆で議論する、まさに民主主義というイメージが強いのですが、ローマの場合、元老院というエリートが最後まで残るわけです。元老院と人民、この二つが並立する。それが帝政を経て現代にいたるまで、ローマの共和制以来の伝統になっているわけで、ある種のエリート主義と人民の参加とを組み合わせている。ギリシャと比べると、ローマの方が擦れた大人の知恵みたいな所があるわけです。古代ローマには独裁官というものもありましたが、これは危機の時には平時の手続きではだめで、超法規的なことをやってでも、ある程度リーダーシップをきかせる必要があるという意見から生まれています。事実上の読者ではなく、ローマは独裁官という仕組みを制度化したのです。
ヤマザキ
群れた人間の性質を分かったうえで作られていますよね。
宇野
そうです。危機のために、あらかじめ制度を作っておく、ただしそのまま自由にやりたい放題ではない。終わった後に事後的にきちんとチェックして、もしその独裁官の権限を濫用していたら厳しく裁かれると。
ヤマザキ
面白いですよね。試行錯誤のような要素が入っていて、一発で成功させようとする無理や圧が無いというか、失敗も前提にされているわけで。
宇野
危機の時には、こうしたら良いという教科書的な答えはありませんからね。ある意味、やってみるしかない。ただし上手くいったか、上手くいかなかったかはきちんとチェックする。これがローマの知恵だと思います。現代に当てはめると、やはりコロナ危機もそうですが、答えが分からない。さっき言ったように間違えるかもしれない。そういう時に判断をしなくてはいけない時に、ある程度リーダーシップは必要になるのかと思います。
宇野
ピエール・ロザンヴァロンというフランスの政治学者によれば、リーダーシップにおいて大切なことの1つは説明可能性です。危機の時のリーダーは言葉が凄く大切で、どうしてこういう判断をしたのか、人にきちんと話して理解してもらう必要がある。ドイツのメルケル首相は本当に見事でしたよね。
ヤマザキ
民衆を激励していますよね。リーダーは励ませるかどうかが大きなポイントだと最近気が付きました。皆、「なんとかなりますから、頑張りましょう」みたいな言葉で良いから、ひとこと言ってもらいたいのに、そういった激励の言葉を誰も口にしない。メルケル首相が凄いなと思ったのは、いち早く「芸術家を助けます、私たちにはあなた方必要なんです」と言って、すぐに5000ユーロ振込むなど、発言に責任と行動力が伴ったことですね。
宇野
加えて、ロックダウンや行動制限をするときに、メルケル首相は「自分は東ドイツ出身だ。だから行動の自由を制限されることがどんなに辛いか分かっている。でも今はしょうがない。少しの間協力してくれ」と言いました。上から目線で「こうしないとダメです」ではなくて、共感を示した上で、でも協力して下さいと言う。あの言葉はグッときました。ほかにも、ニュージーランドのアーダーン首相も素晴らしいコミュニケーション能力があります。皆の前でブリーフィングしている時に、SNSで質問が来て、「今こういうメッセージが来たけれど、これ答えるわね」と。あの対応能力の高さは古代ギリシャ、ローマ以来の伝統だと思うのですが、僕らは普段それをレトリックや弁論術と言います。しかし、ヤマザキさんはそれに弁証という言葉をあてた。つまり、違う意見を持った人間がぶつかる。だからこそ本気で説得して言わなければいけないという部分を重視しているわけです。
ヤマザキ
それはイタリアに留学してから考えさせられたことでした。例えば彼氏と喧嘩して私が泣くと、彼は「別に僕は怒って言っている訳ではなくて、これはコミュニケーションを取っていたんだ。泣いて逃げられてしまったら批判をかわせないじゃないか」と言う。当時は、批判というのはこんな辛い思いをするものなのか、と思ったのですが、それは結局私が慣れていなかっただけでした。日本人は基本的に人とぶつかり合う習性が西洋人ほど強くないのではないかと感じたのです。強い論議、つまり喧嘩的要素のある会話を極力避けるやり方が定着しているというか。
宇野
ヤマザキさんが、対話に対して弁証のぶつかるイメージを持っていることは印象的で、それをサラッと仰っているのだから、おそらくイタリアにいる方はそういう考え方が根付いているのだと思いましたね。
宇野
ヤマザキさんの問題意識としてあるのは、日本でいう民主主義と、ローマやギリシャをイメージした民主主義はどこか違う、ということですよね。日本における民主主義は、空気を読んで、皆の考えている方向に自分を合わせる。嫌な言葉ですが、忖度のようなものになってしまっています。
ヤマザキ
そうですね。今の日本にはびこっているのは、民主主義という名のもとに生まれた世間体による戒律政治ではないかと。たとえば宗教に基づいていれば具体性があるので何が悪いかはっきり見えるものですが、日本の場合“世間体”や“空気”という流動的で目に見えない圧力が人々の行動を強く統制しているように思うのです。時代や風潮によって象られる一般的価値観によって変化しますから、なかなか難しい。
宇野
日本の「空気」の場合、何が正しいとされるか分かりませんからね。ある時は良いとされるものが、次の瞬間いきなりダメと言われるかもしれない。しかし、僕は日本における民主主義の伝統が全部悪いとは思いません。例えば民俗学者で宮本常一という人が壱岐を調査したのですが、村の寄り合いで議論していると、どんどん話が移って全然結論にいかなかった。これは要するに、全員が気軽に喋ることができる、という一つの民主主義だったわけです。この点は古代ギリシャと共通しています。ただ古代ギリシャで僕が面白いと思うのは、デーモスという制度を作ったことです。これは街中に住んでいる人と、山に住んでいる人と、海辺に住んでいる人を組み合わせるということ。1つの閉じられたコミュニティだとどうしても威張る長老や有力者が出てしまうから、なるべく人をばらして、しがらみをなくして、自由に議論できるようにするというやり方です。
ヤマザキ
そこはやはり地域によって育まれる異なった価値観を重要視しているということではないでしょうか。先述したように帝政ローマも、クレメンティア、寛容をスローガンにして、属州をどんどん増やしていく時に、その地域の特性を潰すことはしなかった。言語や宗教の統一化は強行せずに、プラスでローマの属州としての特権を与える。その外交に効果をはっきしていたのが浴場建設ですが、ローマ市民としての自意識も持ってもらうようにする。違った価値観や倫理で生きる人々を否定せず、彼らの異質性を取り込んでいくことでそれなりに機能していた時代が何世紀か続いたということは、思い返すべきことだと思いますね。
宇野
ロザンヴァロンはリーダーシップにおいて責任の重要性も指摘しています。日本の政治家が責任を取らない、取れないのは、この国において責任という言葉が辞めるという意味しかないからです。責任とは、自分の確信に基づいて決断をして、頭を垂れてその結果に従うということです。自分の意見が大前提にあるわけですよね。もしも、それが無くて何となく空気に従っているのなら、責任の取りようがありません。ですから、政治家に必要なのは言葉であると同時に自分の確信であり、そしてそれに対して責任を取るということです。それがなければ周りも期待しませんし、議論が深まることもない。
ヤマザキ
それが今後、変化していく可能性はあるのでしょうか? 元々言語化がそれほど社会で必要とされてはこなかった日本人が西洋人のようにハッキリと物事を言うようになることは考えられますか?
宇野
それは本当に「卵が先か? 鶏が先か?」なのですが、有権者もそういう能力を評価していく必要があります。こういう能力によって計られるのだと思わなければ、政治家も能力を磨きませんから。積み重ねていくしかありません。トクヴィルに言わせると、民主主義は常に正しい答えを出すとは限らない。一瞬の感情や独裁的なリーダーの言葉に引き摺られる瞬間もある。しかし、民主主義の良いところは、間違えても行き過ぎたところで戻って来られるということです。長い目で観ると誤りを乗り越えていく力がある。我々は大きな間違いをこれからもするでしょうが、それを許容する政治体制が民主主義なのだと思います。
ヤマザキ
確かに、卑弥呼の時代や鎖国の時代だったら話は別ですが、西洋式の政治や教育が導入され、今やこれだけ海外と繋がってしまっていることを踏まえると、思ったことを表現するというスキルは身に付けていく必要性はありそうですね。
宇野
はい。重要なのは、皆が自分を当事者だと思うことです。だからこそ、間違いを起こしても、エネルギーが生まれる。その良い部分を出していくには、声をあげること、かつ人の声を聞いてあげること、それを丁寧にやっていく中で責任をとる。全部セットになって初めて民主主義が機能するのだと思います。
ヤマザキ
最後に、セッションの共通質問がありまして、「時代が変わっていく中で、変わらないものと、変えていくべきこと」、これについて先生は何かお考えがありますか?
宇野
今日のお話から言いますと、民主主義において、皆が自分の意見を言って、人の話も聞く、これは本当に変えてはいけないことだと思います。ただし今の選挙の仕組みは変わっていくでしょう。民主主義の大原則を守りながら、それをいかにより良いものにするかはむしろ変えていった方が良いと思います。
ヤマザキ
今回のパンデミックでも、社会の風潮や暗黙の世間的ジャッジに人生を丸任せにしているだけでは不安なものを感じました。納得できない異論であってもそれを冷静に聞き入れ、分析し、論議する自由が許された社会がもっと当たり前になって欲しいと感じています。こういう機会を通して先生のお話を伺えて本当に良かったと思います。民主主義と言っても、一般の人にはなかなか捉えどころが分かりませんからね。
宇野
今こそ自分達の物にしないといけませんよね。
ヤマザキ
本当にそうですね。本日はありがとうございました。
宇野
ありがとうございました。
対談後の控室スペシャルトーク
ヤマザキ
宇野先生はご専門が社会学ですが、元々どういった事を研究していらっしゃるのか、まずお話しいただいてもよろしいでしょうか。