1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は美学、表象文化論。主な著書に『美学のプラクティス』(水声社、2021年)、『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、主な訳書にジャン=フランソワ・リオタール『崇高の分析論──カント『判断力批判』についての講義録』(法政大学出版局、2020年)などがある。
能の「謡」を現代音楽に融合させた「能声楽」を生み出し、現代の作曲家を惹きつける「21世紀のミューズ」。ヨーロッパを中心に活動し、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団をはじめ数々の名門オーケストラとの共演やベルリン・フィルハーモニー、サントリーホールなどで演奏を行う。これまで世界20ヵ国50人を超える作曲家たちと新しい楽曲を発表する世界からのオファーが絶えない、現代音楽で最も活躍する国際的アーティストのひとり。2015年度文化庁文化交流使。2019年度第11回「創造する伝統賞」受賞。
https://ryokoaoki.net/
六本木アートカレッジSPECIAL1DAY、2時間目は能声楽家の青木涼子氏と美学・表象文化論がご専門の東京大学大学院准教授星野太氏をお招きし、「能×現代音楽、伝え手と受け手の曖昧さがもたらすものとは?」というテーマでお話しいただきました。世界の作曲家とともに、能と現代音楽を融合させた作品を生み出している青木氏。日本の伝統が世界と重なり合うために必要なものとは何か?新しい試みを続けることで見えてくる「変化」と「継承」の可能性とは?対談は、能の世界に留まらず、様々な伝統の未来を示すお話になりました。
青木
よろしくお願いします。私は東京芸術大学で能楽の観世流シテ方を学びまして、現在は能の声楽である「謡(うたい)」のための作品を現代音楽の作曲家と作り、世界で公演をしております。能は、謡と舞で構成された歌舞劇です。どうしても舞の能面をかけているイメージが強いと思うのですが、実は謡という声楽の部分が大きな位置を占めています。私はこの謡の素晴らしさを世界に広めたいと思いまして、現代音楽と謡の活動を始めました。現代音楽というのは西洋クラシックの分野の20世紀から現代に至る音楽のことを言います。現代音楽の作曲家にとって、謡の曲を作曲するのに一番難しい点は、能の謡と西洋音楽の楽譜の違いです。能には謡本という能のテキストと楽譜がセットになった物があるのですが、そこには「上(じょう)」つまり「あなたの音域の上の方から謡いなさい」ということが書いてあったり、「サラリ」つまり「サラリ目に謡いなさい」ということが書いてあったり、西洋音楽の楽譜のようにリズムや音程の指定というのがありません。これは師匠からの口伝で学んでいくということが前提としてあり、西洋音楽の全てを記述して再現する考え方とは違うところがあります。こうした違いを分かりやすく示したウェブサイト「作曲家のための謡の手引き」というものを作っております。私は2010年より世界の作曲家に委嘱して世界初演をするというシリーズ「現代音楽×能」を始めまして、そのほかの機会も合わせて計20ヵ国55名の作曲家の方に楽曲を提供していただきました。海外公演がとても多いのですが、2020年には新型コロナウイルスの流行により公演の中止を余儀なくされました。そうした中で何か音楽の力で出来ることはないかなというのを考えまして、新型コロナウイルス終息祈願のための能声楽奉納というプロジェクトを立ち上げました。能は神事として神社仏閣に奉納されてきたという歴史があります。この祈りの芸能ともいえる謡の曲を世界の作曲家に書いていただき、私が主な活動の拠点としているヨーロッパに向けてオンラインのリモートで奉納演奏するという物です。同じリモートの方法を使いまして、アンサンブル・アンテルコンタンポランの首席チェリストであるエリックマリア・クテュリエと一緒にCD「夜の詞 能声楽とチェロのための作品集」も作りました。これはパリと東京をリモートで繋いでセッションを行い、両拠点で同時録音した物を後でミックスした作品になります。コロナ禍ならではのアルバムが出来たのではと思っております。昨年の秋以降は割と海外公演も復活しまして、ベルギー、フランス、スイス、先月はスペインで公演を行いました。今後の予定としましてはオーストラリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル公演などを予定しております。Twitter、Instagramなどでも情報を発信しておりますのでフォローを頂けたらと思います。
星野
青木さんありがとうございました。青木さんのこれまでの音楽活動が非常によくわかるお話で、非常に感激いたしました。
星野
ここからは、いくつか具体的なトピックに沿ってお話しできればと思います。まず今日の一番大きなテーマである能と現代音楽ですが、この組み合わせは、私が最初聞いた時の印象としては「ありそうでなかった」という感じでした。というのも、現代音楽というジャンル自体が、西洋音楽の伝統の中にありながら、それまでの西洋音楽をいかにして脱却して行くかというモチベーションに支えられてきた音楽だと思うからです。有名なのは12音技法といったものですが、それまでの西洋音楽のシステムを一度解体ないし再編して、新しい音楽を作るというのが、20世紀から今日までの現代音楽の中核にあった問題だと思います。その必然として、非西洋圏の音楽を取り入れることを考えた作曲家も多くいて、例えばジョン・ケージは東洋の文化、とりわけ禅に非常に興味を持っていたので、そこで能という要素がコラボレーションするということは、一応理解できます。ただ、そこで青木さんの活動の特異なところは、謡という部分を独立させて、現代音楽とコラボレーションしたということだと思います。多分、この発想というのは能の世界の中でも非常に例外的なことだと思うのですが、そもそも謡を独立させて現代音楽の作曲家と一緒に仕事をしていくという発想はどういうところから芽生えてきて、どういう風に今の形になっていったのかを少し伺ってもよろしいでしょうか?
青木
そうですよね。能と現代音楽というと、皆さん想像なさるのが、現代音楽をかけて能の面をかけた人が動く、といったものです。私はずっと能の稽古をしていまして、謡が根幹にあると習ってきましたし、私も謡の魅力に取りつかれて、本当に素晴らしいと思っていたので、ヴィジュアルが先行して謡が忘れられているような気がしていました。また、いつも謡はお囃子と一緒に謡われるものですが、もっと汎用性が高いものではないか、例えばオーケストラや弦楽器と一緒にやると、どういう風になるのだろう、という興味があって始めたという経緯があります。
星野
なるほど。おっしゃるように例えば演劇というフォーマットであれば、やはり能面の視覚的なイメージが先行するところで、謡というものはバックグラウンドの物として受け取られることも結構多かったと思うのですが、その様な中で青木さんが謡に注目されたことはとても大きな意味を持つと感じました。
星野
先程ご紹介されていた、謡について説明をするウェブサイト。これも青木さんが主導的に立ち上げられたものですよね。いつ頃からなさっているものなのでしょうか。
青木
2016年に立ち上げました。もちろん譜面などは一緒に仕事した作曲家と作ったのですが、現代音楽の世界では様々な楽器の、例えばトロンボーンの特殊奏法を載せたサイトといったものが作られており、海外の作曲家が会わずとも、まず見て分かるものにしたいと思って作りました。
星野
なるほど。ウェブサイト自体が、一緒にコラボレーションする、あるいは楽曲を提供してくれる作曲家に向けての、一つのコミュニケーションツールという面もあるわけですね。想像するに、日本語で、しかもこれまで小さいサークルの中で継承されてきたものを英語にして、パブリックなものにするというプロセスが、伝統を再確認すると言いますか、それをより深く理解する一つの経験だったのではないでしょうか。
青木
おっしゃる通りで、私は能の世界で小さい頃からお稽古しておりましたので、英語で伝えることが最初はとても難しく、色んな作曲家と共演するうちに辿り着いたという印象があります。それまでは何が作曲家にとって必要な情報なのかが分からず、私の能の習い方をそのまま書いても、作曲家には伝わりませんでした。
星野
今日の全体のテーマとして伝統という問題がありますが、日本の文化をどういう風に継承していくか、あるいはそれをどういう風にコミュニケーション可能な形にしていくかという、一つの実践として、謡を英語で発信していくということは大変意義のあることではないかと思いました。私は「美学」という学問をやっていますが、そこにもやはり日本語特有の美的範疇、カテゴリーがあり、例えば九鬼周造という哲学者は「粋」という日本語の概念をどう理論化するか考えた際、他の外国の言葉と、この辺までは一緒だけれど、この点は違う、といったことを探りました。一つの思想や美意識の翻訳を試みて、どこまでが翻訳可能で、どこからが翻訳できないか、その際(きわ)を探っていくことが、一つ文化的なインタラクションを考える時には重要なことではないかと思います。
星野
やはり伝統の継承ということでは、中心にいる人たちと、そこから外側に開いていく人たちと、恐らく両方の活動が必要ではないかと思います。中心を占めている人たちはそれを再生産していく、オーセンティックな形で継承していくということがもっぱら主な関心事になると思うのですが、その一方で、それだけだとどんどん縮小していくしか無いので、それを外部に開いていく動きが、恐らく文化や伝統というものを長いスパンで継承していく上で、非常に大切なのではないかと思います。
青木
外に開いていく、ということで言いますと、海外の方に謡を作ってもらう際は、謡に西洋音楽をミックスするというよりも、作曲家が謡を消化して、自分自身の曲を書いて欲しいと思っています。そうした時に、私が今まで見てこなかった謡の魅力が見える時があります。謡の稽古をしてきた人間の教科書通りの視点とは異なる、外部からの目が入ることによって生まれる、新たな魅力があるのではないかと。
星野
違う世界の人と一緒に仕事をすると、自分が暗黙の内に内面化している規則や方法に気づかされることがありますよね。学問の世界もそういうところがあると思います。一つ具体的な例を挙げると、例えば言葉使い。美術の世界では、ある作品を形容する時に、ちょっと丸みがあったり、生命感を伴っているという意味で「有機的」という言葉を使うのですが、科学者からすると、「オーガニック」という意味になってしまうから、全然違うわけです。ただ、そこでちょっと違和感が発生することで、自明視されていたものが、一歩世界が異なると全然通じないという事実に気づかされる。こういった違和感が面白い発見に繋がっていくのではないでしょうか。
青木
そうですね。私たちが信じている正しい伝統を分かって欲しいと思っても、私たちですら20年くらいかけてようやく見えるみたいな世界なので、別の国の人とのコラボレーションには、どうしても違和感が生まれます。しかしクリエーションはそういう違和感、もしくは作曲家の誤読や誤解から、思ってもいなかった広がりが生まれるものなのではないか、と思うことがあります。
星野
今までの一連のお話は広く考えると他者との関係や、コミュニケーションという問題にも繋がると思うのですが、観客、オーディエンスとの関係についても伺いたいと思います。ここまでは作曲家と謡手である青木さんとの関係が、二極構造でしたが、そこに観客が加わって来ると、またちょっと複雑な話になってくると思います。これまでの公演は海外が多く、日本でもそれを上演されてみて、反響の違いや文脈の違いがあったかと思いますが、いかがでしょうか。
青木
海外の、特にヨーロッパでは、割と現代音楽に好奇心を持って聞いていただけるので、能についても、もっと知りたいと思っていただけることがあって、大変幸せだなと思うのですが、日本では伝統の「能」が皆さんの頭に浮かぶので、能面が出てくるコンサートだと思われてしまうこともありました。ただ、最近はコンサートを続けているので「謡」というものに慣れてきてくださっているのかなとも思います。
星野
なるほど。もう一つ伺いたかったのが、「能の世界」の外で、能の表現を広げていき、今度はそれを「能の世界」の内部に戻した時、また違う変化が起こるのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。青木さんのご経験を日本に持ち帰り、またそこで能をされている方々と意見交換する機会はありますか?
青木
今は能楽界でも新しい試みが出てきているので、外の方に知っていただきたいという意識を持っている方とは凄く共感することはありますね。細川俊夫さんに書いていただいたオペラ『二人静―海から来た少女―』では、私が演ずる静御前とソプラノ歌手の方が演ずる海外の難民女性、二人の出会い、重なりをテーマにしておりました。たとえば、「二人静」というクラシックな能があって、私たちのオペラを一緒に上演するような機会があると、お客さんも面白いのではないかなという風に思っています。
星野
やはり学問でも、学問の外側に一度開いて、それをもう一度自分の専門性に持ち帰ってきた時に、どういう変化が起こるのかという、サイクルがとても重要です。これは、単に異分野と「こういうことやってみました」という単発的なことではなく、長期的に現代音楽の作曲家とコラボレーションして、そのプロセスの中で能の文化自体をどういう風に継承していくかという、そういった大きな問題に繋がっていくのではないでしょうか。
星野
では、ここで視聴者からの質疑の時間をいただいてもよろしいでしょうか。まず、「能は口伝ということもあり、門外不出という考え方もあるかと思うのですが、それを広く伝えようとすることに対して能楽界から抵抗はありませんでしたでしょうか?あったとしたらそれをどう乗り越えてきたのでしょうか?」というご質問です。
青木
最近では、海外でワークショップをなさる能楽師の方も多いので、基本的には問題だということはないと思います。特に、新型コロナウイルスの流行で、積極的に出していかないと、つまりオンラインにコンテンツがないと、どこにも存在していないような扱いになってしまいますので、考え方は変わってきているように思います。
星野
コロナになる前からだと思いますが、ある種伝統文化に携わる人たちも、それまで自分たちが口伝えで伝承してきたことを、どこかで形にしなければ、という意識を持った方々が多くなってきたのではないでしょうか。それでは、次の質問ですが「先ほどお話にあったオペラ『二人静』の音楽において、西洋の歌手は能楽的な謡い方をされていたのでしょうか?それとも違う歌い方をされたのでしょうか?」。
青木
私は能の謡い方、ソプラノ歌手の方は普通の歌い方になります。ただ、初め、私は日本語、歌手の方は英語で、言いたいことを言うだけの会話をしていました。その後私は英語で謡うようになり、最後歌手の方に私の静御前の霊が乗り移ったところで、日本語を喋るという瞬間があります。その場面は二人とも同じフレーズを輪唱しながら謡うのですが、基本的には五線譜に書かれたメロディーでありながら、謡風に歌っているという感じになります。
星野
『二人静』の映像を拝見した時に、私もそこがとても印象的でした。単純に一つの言葉で謡われたものを別の言語に翻訳するのではなく、異質な言語がその場で共存しているというのが、正に青木さんがなさっているようなコラボレーションの本質的な部分ではないかと感じました。
青木
丁度、能の『二人静』でも、肩に手を当てることによって霊が乗り移るという場面があります。それも演出の中に取り入れられていて、私がもう一人に手を当てますと、霊が乗り移り日本語を喋る。そういった言語の融合、文化の融合を目指したものだったと言えるかもしれません。
星野
ぜひ、日本でも実際に拝見する機会があればいいなと思っております。まだまだお話したいことは尽きませんが、そろそろお時間となりますので、こちらで終了したいと思います。青木さん、どうもありがとうございました。
青木
ありがとうございました。
細川俊夫作曲 オペラ《二人静ー海から来た少女ー》
2017/12/1 パリ・フェスティバル・ドートンヌ(パリの秋芸術祭)
シテ・ドゥ・ラ・ミュジーク - フィルハーモニー・ド・パリ、フランス
台本、演出:平田オリザ
指揮:マティアス・ピンチャー
出演:シェシュティン・アヴェモ、青木涼子、 アンサンブル・アンテルコンタンポラン
星野
このセッションのテーマは能×現代音楽という少々珍しいテーマですので、まず能とは何か、そして青木さんが能声楽家としてどのような活動をされているのか、ご紹介いただいてからお話を展開して行きたいと思います。では青木さん、どうぞよろしくお願いいたします。