六本木アートカレッジ SPECIAL 1DAY 2022
セッションレポート
vol.5

アートの役割「正」と「負」を見つめて生きるために

モデレーター: ロバート キャンベル 日本文学研究者

Profile

ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。

ゲスト: 会田 誠 美術家

Profile

1965年新潟県生まれ。1991年東京藝術大学大学院美術研究科修了。絵画、写真、映像、立体、パフォーマンス、小説、エッセイ、漫画など表現領域は国内外、多岐にわたる。美少女、戦争画、サラリーマンなど、社会や歴史、現代と近代以前、西洋と東洋の境界を自由に往来し、常識にとらわれない対比や痛烈な批評性を提示する作風で、幅広い世代から圧倒的な支持を得ている。
近年の主な個展に「天才でごめんなさい」(森美術館/東京 2012-13)、「考えない人」(ブルターニュ公爵城/フランス 2014)、「GROUND NO PLAN」(青山クリスタルビル/東京 2018)、昨年は「パビリオン・トウキョウ2021」に参加、神宮外苑に建てられた《東京城》は大きな反響を呼んだ。
小説「げいさい」(文藝春秋、2020年)、「青春と変態」(ABC出版、1996年/筑摩書房、2013年)、漫画「ミュータント花子」(ABC出版、1999年/ミヅマアートギャラリー、2012年)、エッセイ集「カリコリせんとや生まれけむ」(幻冬舎、2010年)、「美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか」(幻冬舎、2012年)、など著作多数。

Overview

六本木アートカレッジSPECIAL1DAYの6時間目は、美術家の会田誠氏をお招きして、「アートの役割「正」と「負」を見つめて生きる」をテーマにお話いただきました。会田氏は「パビリオン・トウキョウ2021」の《東京城》において、祭典の傍らに避難生活や路上生活を想像させる作品を置き、大きな反響を呼びました。現代アートが表現するポジティブとネガティブの二面性、そして個人をよりどころにするアーティストの可能性とは何か、日本文学研究者のロバート キャンベル氏と共に対談いただきました。

世界的に見れば当たり前にある「負のアート」

キャンベル

今日はまずタイトルにある正と負、これはポジティブとネガティブ、プラスとマイナスとも言えますが、これらをどのように捉えていらっしゃるか、お伺いしたいと思います。

会田

僕は色々と嫌われているアーティストでして、活動初期には意図的に、正と負なら負の要素を、悪や残酷、プロレスでいうところのヒール役のようなアーティストの役割を選んできました。あまりやりたがる人がおらず、ある意味席が空いているということも理由ではあったのですが。基本的に、綺麗な絵や丁寧に描く絵も好きで、見ますし、描いたりもします。ただ僕が日展や賞をもらうような100%綺麗な絵を描いても、ちょっと意味が無いと思っていて、画の中で矛盾するような、綺麗だけどダークな、負の面を持った作品をあえて作ってきました。日本は花鳥風月のような美意識が良かれ悪しかれ強い国で、一般の方でも美術や絵というのは心地よくて美しいものだと思っている方が、他の国より多いような気がします。一方で近代美術を発達させた張本人のフランスをはじめとして、ヨーロッパの国々では芸術というものはどんどん進化するものだと考えます。つまり、昔はキリスト教の教会で綺麗な絵を描いていたけれど、革命が起き、社会が変化すれば、それに寄り添うように美術も、綺麗というだけではないものに変わっていくという考えです。美術大学などを出た人間は、そういう流れで美術を把握するのですが、一般の方にそういう啓蒙みたいなものが行き届いていないせいで、ギャップが生じていますよね。

キャンベル

あいちトリエンナーレ2019では、一部の作品が政治の場でやるべき事であってアートではない、という意見もありましたね。政治とアートを分節する、峻別することを求められても、そもそもアートとは社会と一体化したもので、つまりは「綺麗」ではないものが当然あるのではないかと私も思います。

オリンピックの隣に、貧困と災害の象徴を置く

キャンベル

2021年の東京オリンピック・パラリンピックでは「パビリオン・トウキョウ2021」というイベントが行われ、会田さんはその中で《東京城》という作品を作っています。こちらについて、少し紹介いただけますか?

会田

「パビリオン・トウキョウ2021」は、建築家が中心のイベントだったのですが、美術家としては僕と草間彌生さんだけが呼ばれて、建築的なアプローチの物を提案してくれと言われました。青山通りから新国立競技場に行くT字路には、昔から不思議な石組みの土台が2つあって、ここを使わせてもらえるのであれば使いたいと思って、僕が提案したのが右側が段ボール、左側がブルーシートで出来たお城です。段ボールはホームレスを連想していただいてかまいません。そもそも僕はすごく若い頃に段ボールの城を新宿の地下道に建てたことがあります。《新宿城》というタイトルでした。これは当時、段ボールハウスの村が出来ていて、その頃、僕はとても貧乏なアーティストだった事もあり、応援でありシンパシーから作ったものです。とはいえ、実際の支援をしているわけではありません。社会と関わるアーティスト活動が何のためなるかという自問自答は、この新宿城を作った辺りから始まっているように思います。実を言うと、特に何か素晴らしい解決策がその後に出たわけでもありません。ともあれ、もう一つのブルーシートのお城の方は、地震でも台風でも、日本家屋の瓦屋根に穴が開くとブルーシートで雨をふさぐという、そのような天災のあった場所を連想していただこうというものです。華やかな国際イベントとして、何かポジティブなイメージばかりを出そうとしているオリンピック会場のかなり近くに、こういったものを建ててみたくて、僕というより主催者が大変な思いをしながら交渉してくれて、ようやく建ったものになります。

キャンベル

《東京城》が建てられた場所は、明治天皇を祀る明治神宮の外苑であり、国家の秩序であるとか、公共性が東京の中でも極めて高い場所です。そこに段ボールやブルーシートが思い起こさせるイメージを考えると、かなり強い訴求性を持った作品だったと私は思いました。特に東京のオリンピック・パラリンピックは開催が近づくにつれて復興五輪というテーマが薄くなっていました。それに対する《東京城》は、正と負を、ほとんどそのまま、同じ土壌に対峙させるようなメッセージ性を持った表現になっていますよね。

アンビバレントな感覚が「作品」のきっかけになる

キャンベル

近年、会田さんは文字と映像、文字とイメージを組み合わせた作品も作られていて、例えば、《北東アジア漬物選手権の日本代表にして最下位となった糠漬けからの抗議文》というものがあります。僕は本当に傑作で、大変興味深い作品だと思っています。

会田

これは韓国のあるキュレーターの方が3年前に韓国の済州島の美術館でやるはずだった企画のために作った作品です。日本、韓国、中国、北朝鮮、4か国のアーティストを集めた割と政治的なテーマの、つまりはアジアに平和が訪れたらいいね、というテーマの企画だったのですが、作品の内容としては東アジアの漬物選手権で日本の糠漬けが3位になった、というものです。

キャンベル

これはオリンピックと重なりますね。1位がキムチで、2位がザーサイ、3位に甘んじているのが糠漬け。

会田

そして、この糠漬けが審査結果に不服で、審査員たちに毛筆で抗議文を書くと。それが基本的には国粋主義的な内容なのですが、しかしある意味で良いことも言っているように見える。国粋主義者にも一部の理があるような、どこか滑稽で微妙なものを含んだ抗議文です。これを日本語と英語と韓国語と中国語で書き、展示されています。

キャンベル

糠漬けが抗議するための理屈としては、糠漬けというのは日本の水と空気、そして糠というお米を精米する時に残った物を用いて、大切に時間をかけて作った非常にピュアなものである、と。それが色々と過剰な香辛料などで熟成された者たちに負けるとは到底納得出来ないというものです。これは寓話ですよね。

会田

そうですね。そういう国粋主義的プライドとか、ナショナルアイデンティティを皮肉って、バカにしてもいるのですが、しかし僕の表現というのはアンビバレントなことが多くて、バカにしつつも、それは大切だったり、しょうがないと思っていたり、両方の側面を持っています。僕は、何か「両方だな」と思う時に作品を作ろうかと思うのですが、それゆえ僕の作品には大抵結論が無いのです。

個人であるアーティストだからできる提示と責任

キャンベル

会田さんは《平和のおじさん》という、これもまた大きな問題作をお作りになりました。これは実現できなかった作品、ということでしたね。

会田

あいちトリエンナーレで《平和の少女像》というタイトルの慰安婦の木彫が問題になりましたよね。あれは椅子が2つ並んで置いてあって、片方に木彫の少女が座っているのですが、もう1つ空いている椅子に座ってくれという作品です。《平和のおじさん》には、2つの椅子のうち、片方に僕が座って、空いている椅子に来ていただいた方に座っていただいて、僕と話をしてもらうという構想でした。2人が座っている背後には、日本の旭日旗が貼ってありまして、皆さんご存知かと思いますが、韓国の方が物凄く嫌っている旗ですね。その旗に、いらした方にハングル文字で何か書いてもらって、書いてもらったら椅子に座ってもらって、通訳を通じてどんなことを書いたのか教えてもらう、というようなパフォーマンスです。こういったものは、やはりやってみないと分かりませんし、僕も答えが分かっていてやるものではありません。こういうシチュエーションだと、従軍慰安婦や旭日旗の話も出るでしょうし、戦争や植民地の話にもなると思います。僕もそれなりの考えは持っていますが、別に歴史研究者でもない。多分、日本人というバイアスで偏った想いをしているはずで、いらっしゃる韓国の方だって色々ですよね。

キャンベル

そうですね、専門家ということはありえない。

会田

だからシチュエーション的には、色んな人が集って喧嘩になって、Twitterみたいな世界になってしまうかもしれないけども、それでも、それしかやりようがないのではないか、と思っています。今日は正と負、つまり「正しさ」というものがお話のテーマですが、正しさというのはアーティストだから本当の正しいことを知っていて、それを間違っている可能性のあるお客さんに教えるとか、そういう考え方はやはりおこがましいと思っています。僕は、アーティストの現代における価値の一つは、凄く個人性が強いことだと思っています。今、ほかの文化や社会は組織に属している方が多くて、アーティストも厳密に言えばどこかのギャラリーに所属していたりするのですが、それでも一応考えられる、一番個人が個人でいられる職業の形態だと思います。そういった人が何か責任を持って提示をする。それぐらいしか、アーティストが出来る、アーティストならではの仕事というものはないかな、というのが僕の取りあえずの結論です。

「下衆」な視点だからこそ、人を繋げる

キャンベル

個人として提示できることとして、例えば小説でいうと多和田葉子さんが数年前に『献灯使』という小説を書いて、これも1つの寓話として読めるものでした。未来に鎖国をしている日本で、色んな障害を持って生まれる子たちが増えていて、どうやってその社会を作っていくのか、というようなことを小説として書いています。これは福島第一原発の事故が下敷きになっているのですが、それに触れずに、今我々が思っている不安を感じさせてくれる。それは彼女が個人として書いているので、時事やニュースが作品の土壌となっているのですが、同時に、現実とは異なる世界に置き換えて描いています。一方で、会田さんの《平和のおじさん》などは、実際に起きた事を知って初めて、深い所に行けるような作品だと思うのですが、いかがでしょうか。

会田

今(2022年3月)、六本木ヒルズにある森美術館では、Chim↑Pom展をやっています。彼らの展覧会は素晴らしいのですが、6人のメンバーのうち多くが美術の教育をちゃんと受けていません。このChim↑Pomの良さというのは、半ば演じているところもあるものの、そういう教育を受けていないことを開き直って、街にいる普通のアンちゃんという視点に立っているということです。僕は確かに美大を出たので丁寧に描けば描けるのですが、《平和のおじさん》や《北東アジア漬物選手権》は特に技術がなくても作れるようなものです。つまり、Chim↑Pomも僕も、いわゆる「下衆」のまま表現をしてるということが大事だと思っています。今、グローバリズム経済の中で不満が募っている方々というのは、アートやアーティストを凄く嫌っている方と重なっていることが多いわけですが、僕はそういった方にもラブコールを送る、かつニューヨークのアートワールドにも片足を置く、二重スパイみたいなことが出来ないかと思っているわけです。

キャンベル

あまりにも見ている物が違い過ぎていて、分断されている人々がいるとき、例えばワクチンが人を殺すのか?救うのか?ということはとても意見が分かれると思います。しかしアートは人の権益や、権利を奪うものではないですよね。ある意味、薬にも毒にもならない。しかし、それを観て、聴いて、感じることで、違う風景を見ていたとしても、それからちょっと会話が出来るかもしれない。分断された人々が一緒にビールを飲んだりすることになる媒体として、アートがあったらいいなと思いますね。

会田

そうですね。《平和のおじさん》は、アートというのは、そういう使い方があるのではないか、というチャレンジだったわけです。

雲散霧消する現代美術の中で「アートをやる」

キャンベル

今朝、竹中平蔵さんと一緒にオープニングトークをした時に、いろんな話をしましたが、質問もいただきました。それを改めて、ここで考えたいと思います。「多様な意見、多様な世界が理想ですけれども、日本は世間体、空気といったもので正しさが決まるような息苦しさがあると思います。世界と日本での正しさの認識の違いはどう考えますか?」と。改めて今日のお話の最後に、ご意見をいただけますでしょうか。

会田

日本が忖度、空気に支配されやすいという感覚は分かりますよ。僕も一人の日本人なので、その性質は多分いっぱいあると思います。ただ、芸術家と名乗っているからには、その部分においては個人を頑張って立てて、責任を持って、なんなら100万人からバカにされ、嫌われることでもやる時はやろう、見せる時は見せようという、そういう思いを持っています。

キャンベル

次に視聴している皆さんから、質問が来ております。「アートは滅ぶだろう、といった会田さんの発言を読んだことがあります。これはアートの価値がおかしくなるということでしょうか?」という質問です。

会田

僕の考えでは、1960年代アバンギャルドと言いますか前衛芸術運動の辺りで一度アートは行けるところまで行ったと思っています。その後むしろ保守化して美術業界というものが続くわけですが、それ以降大きな、なんとかイズムというものがなくなって、いつでもバラバラで中心が無く、ムーブメントが咲いては消え、という状態になっていると思います。それは思うに、混乱しているのだと僕は思っているのですが、それなら僕個人も混乱しようと思いまして、統一感なくいこうと。僕は作風が割とバラバラで、バラバラだと中々世間的にも覚えてもらえませんし、アーティストとしては損な作戦です。しかし、滅ぶのならば滅んでもいい、と思っているわけです。アートの滅びを、個人的にも体現しようと。歴史上、アートは現在にいたるまでずっと変化し続けていますが、最近はその変わり方が雲散霧消に近いような気がしています。例えばですが、かつてビデオアートと言われていたものは、YouTubeになって消えてしまった。アートが粒になって、時代の空気の中に溶けていって、アートという大きな塊は無くなるけれど粒は残るというような、そのような「滅び」をイメージしています。でも、これはやはりマルセル・デュシャンから始まった現代美術のことで、他のジャンルはまた違うような気がします。狭い意味での現代美術の話だと思っていただければ。

キャンベル

ありがとうございました。今日は「個人」という言葉を会田さんに出していただいたわけですけども、アートは政治なのか、という問いかけがあり、実際に色んな支障が起きて実現できなかったり、阻止されたりするとき、私たちはもっと根源的に、アートというものを考えないといけないように感じました。それに対する答えは無いわけですが、会田さんと一緒に、特に近年の作品を見ながら、美術家ご自身の言葉を聞くことが出来てとっても良かったと思いました。本当にありがとうございました。

会田

ありがとうございました。