人生100年と言われる時代、どう働くか、どう生きるかを自分で決めなければなりません。ビジネスでも同様に、不確実な時代に意思決定をするためには、自分なりの価値観、美学を持つことが重要となります。六本木アートカレッジ第2回セミナーでは、俳優業にとどまらず、ライブコマース事業等を手掛ける人気俳優・山田孝之氏と、経営学者の楠木建氏をお迎えします。山田氏と遠山氏という2人の経営者の議論に、知見豊富な楠木氏が加わり、これからのビジネスに必要な価値観や美学について語り合いました。
僕は競争戦略を専門とする、経営学者です。競争の中で儲かったり儲からなかったりするのは何故かという理屈を考える、至って世俗的な分野です。僕にとってアートは、「サイエンスでないもの」です。サイエンスは再現可能な法則を探していくものですよね。つまり「人に依らない」。一方のアートは思い切り「人に依る」んです。そういう点で、アートとサイエンスは対立する概念であると思います。ビジネスもサイエンスと同じで、第三者の誰にでも説明できるような法則を求めていく傾向があります。しかしながら、よく考えると本来そうあるべきじゃ無いのではないかと感じています。
なぜなら、商売事って、アートとサイエンスの両方の面があるんです。分野ごとに担当の仕事をすると、仕事の進め方などで法則があるのでサイエンスの面が出てきますが、企業の上層部の人は商売を丸ごと動かすため、法則なんかじゃ計り知れない直観的な決断や部下を動かすカリスマ性など、感性がものを言うようになってきます。つまり、アートの側面が強い。
僕は社会科学者だから一応はサイエンス側です。一方、僕の仕事の相手は事業経営者だからアート側。それを僕がサイエンティフィックな方法で解析するのは、本質的に非常に無理があるんです。見ている対象がアートに近いわけですから。だから「僕の分野はそもそも学問ではございません、学芸です」と宣言して、自分のやり方で仕事をするようになりました。
事業やビジネスというのは「子供のまなざし×大人の都合」で成立すべきものだと思います。つまり、子供のような純粋な思い、初動、発意が自分の中にあってスタートする。でもビジネスにはステークホルダーや市場、価格など、大人の都合が必要な部分もあるので、子供のまなざしだけではなかなか上手くいきません。この世の中は徹頭徹尾大人の都合だらけですからね。
高度成長期は需要より供給が少なかったので、作れば売れた楽勝の時代でした。でも今は、需要は減って供給はやたら増えています。こうなるとビジネスは上手くいかなくて当然なのに、失敗する度に外の理由を探してまた失敗する企業が多い。現代は上手くいかなくてもそれでもやる、というちゃんとした信念や理由が無いとダメな時代です。だからこそ、もっと子供のまなざしのような発意のことからビジネスを始めるべきだと思うのです。
「子どものまなざし×大人の都合」、おっしゃる通りだと思います。先に子供のまなざしがあって、後で大人の都合が出てくるから良いわけですが、現代はまず先に大人の都合ありきになっています。ビンタしてから抱きしめるのと、抱きしめてからビンタするのでは全然違いますよね。時間的な奥行きや順番の本質というのは目に見えないので、多くの事業家は順序を誤ってしまうのでしょう。
ちなみに僕は抱きしめられてからビンタされる方が良いですね(笑)。
俳優になって20年位になりますが、最近プロデューサーとして映画を作る側に立つという経験もし、いろいろなことが見えてきました。要するに、映画ビジネスにおける「大人の都合」です。例えば、ポスターを作ることになり、最初に広告宣伝部側が原案を作ってきてくれたのですが、映画の内容とはずいぶんかけ離れていました。宣伝部としては、その作品は男たちの泥臭い物語ですし、原作も有名ではなかったので、そもそも見るお客さんが少ないだろうと判断し、ハリウッド映画のような派手なポスターを作ってきたのです。無駄に間口を広げて過大広告みたいなことをやると、SNSで叩かれるので逆効果だし、お客さんはポスターだけで映画を選ばないと僕は思っているので、変更を提案しました。でも、宣伝部は後日また同じポスターを持ってきたんです。
なるほど。今の話は会社の中でもよくあることで、宣伝部という部門担当の人が達成したいことと、プロデューサーとして映画丸ごとコミットしたいという人の目的が初めからずれていますね。宣伝部は、要は叱られないために仕事しているようなところがあり、次から次へといろんな映画の宣伝の仕事が来るのを捌くので精一杯でしょう。だから最終的にはこの人が全権を持って決める、という強い力を持った人がいないと、結局ダメになってしまうのではないでしょうか。ちなみに、山田さんが俳優業を越えて、プロデューサーをやったり他のビジネスにも関わったりするのは、何が動機になっているのですか?
俳優というのは、自分のしたいお芝居だけをやっていれば良いという仕事ではありません。若い時は、これはどう考えても無駄な苦痛だなと感じることもありました。俳優側の思いと宣伝部の思いが相容れなかったり、撮影現場での時間の拘束がかなり長かったりと、ストレスは大きいです。ただ、現場の俳優やスタッフたちは、たくさんの情熱や思いを持って、命を削って、人生をかけて映画に向き合っています。だから僕がプロデュースをして自分が携わっている作品では、そういうことが起きないようにしたいと思ったのがきっかけ。若い俳優たちのストレスを減らし、もっと正当な還元を得て演技に集中できる環境を作りたいのです。
俳優がプロデューサーを目指すときは、周囲から持ち込まれる仕事ではなく、自分で仕事をつくりたいといった作家性が動機にもなり得ると思うけど、そういう作家性は強く持っている?
プロデューサー1作目では脚本にも全て関わらせていただきましたが、作家性が動機ではないですね。映画の制作・宣伝、そのあり方への問題意識が根底にあります。
なるほど。仕組み作りへの問題意識が強いんだ。
多くの映画プロデューサーから、日本の映画産業は2,000億円というキーワードを聞きますが、そこから3,000億円に増やそうといった前向きな話には転ばないんです。個人的には、国内で2,000億円以上に伸びないのであれば、海外にもっと作品を輸出して、世界から回収する必要があると思っています。海外で通用するためにはクオリティを上げる必要があり、クオリティを上げるにはハイパフォーマンスを発揮し易い現場を守らなければならないんです。このように、僕のなかでいくつもの問題がつながっていて、その解決策として自分がプロデューサーになることを選びました。
今の山田さんの発想は、アートの本質だと思います。つまり、細分化していくサイエンス的な発想ではなく、全体へと遡り、前提を見つめ直すアート的なものだと。映画というのはそれぞれに専門的な能力、スキルがある多くの人数で作るものですから、基本的に方向性が部門毎に分かれがちです。そもそも人間というのは、ある特定部門のスキルに自分のアイデンティティーを求めるので、放っておくと分かれていくのです。そして各々の分野で法則を作ってサイエンスになっていく。言い換えると、売り上げを意識して変にポスターばかり作ったり、経費削減のために俳優をスケジュール地獄にしたりする大人の都合がはたらくんです。だからこそ、分業の真逆の総合とか俯瞰といった発想を持った人が重要ですし、企業における経営者というのはそういう立場の人を指します。分業からは、何十年という時間に耐え得る名作映画は生まれてこない気がします。
ビジネスでは、スケール感って重要ですよね。映画館の存在が大き過ぎて、映画界は映画館から離れられないのでしょう。膨大な経費、回収、権利などが絡んでくるでしょうから。私はビジネスをやっていて、そういったスケール感というのが常に厄介だと感じています。そのスケール感が10分の1になれば、ビジネスの方法論も変わります。そして10分の1にしたことで勝算ややりがいが10倍になることもあると思うんです。大きければ良いというのではなくて、何を実現したいのか、お客さんが体感したいのは何なのかということを捉える力がビジネスには大事ですね。
映画の作り手がどうやったらお客さんの心を掴めるか、直につかみに行けるかということが本質的なポイントですよね。映画の観方のいろいろなオルタナティブを作ることができれば、映画館と映画、俳優との関係性も変わってくるのではないでしょうか。
そういう意味でも、私は最近小さいビジネスに興味があるのです。銀座のたった5坪で1冊の本を売る森岡書店、そして1日1組だけが泊まれる豊島の檸檬ホテルをやっています。サイズが小さいので経済的リスクが少なく、思い切ったことができるし、1人でもできるのが良いところです。ポスター制作もプロデュースも全部自分の判断でできます。だからズレがそもそもないのです。昔のビジネスは皆そうやってスタートしていたんですよね。
一人屋台方式ですね。日本が開国した当時に訪れた外国人たちが、商店街を見てその専門性の高さに驚いたと言いますね。品揃えは少ないけれど、すごくレベルの高い良いものがあって、知識の奥行きも深い。日本人の精神的な思考性はもともと西洋の近代的な分業と違っていて、一人屋台方式のほうに行きやすい気質だと思います。
本田宗一郎は、奥さんが自転車で買い出しする時に荷物を持って運転するのが大変そうな姿を見て自転車にエンジンを付けた。それがホンダの始まりです。でも現代はそういうふうに始まるビジネスが少ない。私はこれから再びビジネスが江戸時代化すると思っています。個人単位の小商いの時代です。生身の人間って手の届く範囲が本来限られているので、リアルなスケール感をもっと活かしたビジネスの形にしたほうが、密度も価値も高くなるのではないでしょうか。今はインターネットも発達しているので、小商いが非常にやりやすい。
たしかに、海外のライブや演劇、ミュージカルでは、密度を高めることで価値を高める、少人数制のエンターテイメント空間がありますね。日本でなぜ追随するような人たちが出てこないのが不思議です。一律8,000円とかの値段設定がほとんどです。
映画は情報材なので、一度作ると何回も再生できます。仮に映画を小商売的にやって上手くいけば、逆に映画館サイドから「うちでもやってください」と言われて売り手市場になります。そこまでいかないとしても小商売的な段階で十分ペイできるでしょうね。このように理論的には、映画ビジネスも小商売的な取組みができるポテンシャルはあるように思いますが、トライアルできる場が少ないのが課題ですね。
大人の都合という方程式から抜け出して、アートやビジネスの原点である子供のまなざしに立ち戻れば、自分は何をしたかったんだっけ?誰を口説きたかったんだっけ?どういう気持ちになりたかったんだっけ?ということを思い出せます。ビジネスを成功させるためには、スケールを小さくした方が上手くいきやすいことも自ずと分かりますよね。私は年齢的にも今後の人生は何十年も無いですから、ビジネスをせっかくやっていくなら1発ずつ仕留めたいですよね。大風呂敷でやっている時間は無いんです。
どんな業界にも「こういうもんだ」という思い込みがあるけれど、よく考えてみるとそこには大きな矛盾があって、そもそも新しい映画は映画館でなきゃ観られないというのも非合理ですよね。こういうところからイノベーションが生まれてきたら良いですね。
「自分は何をやりたいんだっけ?」と自分単位に立ち戻れば、ビジネスは映画館みたいなサイズ感にはならないはずなんです。自分の思いから始まるから、成功も失敗も自分次第。誰のせいにもできません。さっき山田さんが「俳優は人生賭けてやっている」と言ったように、丸っと人生と仕事がそのまま重なっているのが、これからのビジネスのあるべき姿ではないでしょうか。その方がその人の自分事が一番輝いて、生き生きと仕事ができます。役者なんて正に自分事そのもの。子供のまなざしを忘れずに、「アーティスト×ビジネスマン」の掛け算を上手くやって欲しいですね。
かつてはテレビドラマしかなかったのに、ネットフリックスやAmazonプライム・ビデオの登場で、ドラマを楽しむ環境が増えました。それと同じように、現代のメディア環境に合わせて、例えば尺の短いものを流すみたいに、映画コンテンツの出しどころを巧みに考える必要があるということを今日再確認しました。それと同時に、映画は僕にとってかけがえのないものですし、映画館もなくなりはしないので、今の映画産業のシステムの上でも現場のスタッフ・キャストが報われる仕組みをちゃんと築いていきたいです。
結局は、「誘因」と「動因」の区別ということだと思います。誘因というのはインセンティブ。こういうことができたら昇進するよ、給料上がるよというようなことですね。動因というのは自らの中から出てくるもの。僕はひらめきというのは動因でしかあり得ないと思う。インセンティブが付いた途端に、人はひらめかなくなります。世の中はインセンティブを与えれば何でも解決するというような方向に行きがちですね。動因を大切にすべきです。
私は今見えているものや話していること、触れられるものは世の中の10%くらいで、他の90%はまだ「見えていないもの」だと思っています。そこに何かを見出して具現化していくのがアートだと思います。ビジネスも同じです。ひらめきというのは、その90%のまだ真っ暗なところに、自分がこれだ!といって立ち向かっていく行為のことではないでしょうか。
僕はすごくシンプルで、18歳くらいの時から明日死ぬかもと思って生きているので、やらないということが一番のリスクであり、無駄なことになるんです。もちろん考えて行動はしますが、やりたいとひらめいたことは絶対にやる。だから僕はひらめいた後にリスクを感じることはありません。
私は「アートはビジネスではないが、ビジネスはアートに似ている」と考えています。アートは本質的に自分事でスタートするもので、自分の感性やパッションが作品を作る根源になっています。本来ビジネスもそうだったはずで、自分の身の周りの必要性や困り事から始まっていました。しかし現代のビジネスはマーケティングだらけで、他人の目や外部のことばかり気にしています。
今回はそんな現代ビジネスがアートから学ぶべきことについて、分野の違う3人で考えてみたいと思います。まずは楠木先生に、自己紹介も含めて今の立場の中でのアートとビジネスに関する問題提起をしていただきましょう。